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全肯定という趣味

文章を書くとき、書きやすい「型」ってありますよね。
譲歩逆接構文だっけ、そういうの、大昔にならったような気がするんですが。(「たしかに〇〇である、だがしかし~」というやつですね)

とにかく、文章を書く材料として持って来やすいのが
「何かを批判、否定する」というやり方じゃないかなと思うんです。
批判、否定、って言葉にするとあんまりいいイメージがないですが笑、もうちょっと言い方を変えると「視点を変えて反証する」かな。こっちのほうがいい感じに聞こえますね。

反証や反論って、形としてやりやすいんですよね。
そもそも、何かに引っ掛かりを持つとき、違和感を覚えるから引っ掛かりを持つんですから。引っ掛かりって、ものすごく論点にしやすい。逆に「上から下までマジ同意」みたいな文章って、新規性がないというか、独自性がないというか。
文章って論点がないとなかなか書けませんからね。

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わたしも反証や反論で文章を書いていること、多い気がするんですけど。
日常生活ではともかくとして、特に文章においては「どこに同意しているか」よりも、「どこに違和感を持っているか」のほうが個性が現れやすい気もするんですけど。

でもね、実はわたし「全肯定」ていう趣味があるんです。なんだその趣味、って感じですが。
すべてのことに対して、「すごい」「えらい」「いいと思う」「たしかに」「そうかもしれない」「そういうこともあるよね」って受け止める、という趣味です。笑

人間、何かと比較して否定するのは、とっても得意な生き物だと思っていて。同じように、何かと比較して肯定するのも、割と得意。
というか常に無意識に、そうやって「何かと比較して」いろんなことを評価しているんだと思います。

肯定するために、ほかに否定を生み出す。
何かを褒めるために、ほかに褒められない何かを生み出す。
良いと評価するために、ほかに悪いを生み出す。

そういう営みがあってもいいと思うし、人間らしいといえば人間らしい気もするんですけど。
でも、たまに疲れちゃうんですよね。笑
比較するほうも疲れるし、比較されるほうも疲れちゃう。気がします。だってキリがないから。上を見ればキリがない。下を見てもキリがないし、右も左もキリがない。もしや球状になってるんじゃないかな、比較の場って。笑

だから、そういう比較を一切やめて、「いいと思う」「そんな気がする」って全肯定してみるわけです。自分の意思で。自分の責任で。

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やってみるとわかるんですけど、慣れるまではムズムズします。落ち着かないというか。なぜかというと、相対や比較って根拠があるんですけど、全肯定にはなんの根拠もないからです。そのジャッジにあるのはただ、自分の意思と自分の責任だけ。

でも、慣れてそれが自然にできるようになってくると、結構気持ちがいいんです。全肯定。
自分に対してもだし、目の前の相手に対してもやってみるといいと思います。毎日とは言わないので、週一くらいで。全肯定タイム。

笑顔が増えます。謎に。笑

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ただ、昨日の記事にも書きましたが、やっぱりバランスなんですよね。毎日全肯定し続けるのも、あんまりよくないというか。人によるというか。
自分が日々相対と比較の場で生きているなと思ったら、息抜きに全肯定してみるといいし、逆に日々絶対自分軸みたいところで生きている人は、息抜きに相対と比較の場を設けてみるといいんだと思います。

まあそれでも、やっぱり現代人は、相対と比較の場にいる人がとっても多いなと思うんです。体感的に。だから、ぜひ「全肯定」やってみてほしい。

何を保証するわけでもないですが。笑

最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました! 意識低めなので、いただいたサポートは書籍代などにはならず、おいしいケーキや紅茶に消えると思います……(*´ω`*)♡