「石橋を叩いて渡る」ことの考察

石橋を叩いて渡る

ということわざがある。

どんなふうに石橋を叩き、どのように渡るのかを想像すると、なんとなくその人のひととなりが見えてくる気がする。

たとえば、わたしの場合だと、渡る前に石橋をまあまあ丹念に叩く。けれど、この石橋がまだ屈強で早々に崩れることがないと分かれば、途端に石橋に対しての興味を失い、何かほかの興味関心に没頭する。そしていよいよヤバそうだという時期がくると猛ダッシュで石橋を渡りきる。まれに道半ばで落ちることもある。

一方で我が上司は、石橋を重箱の隅をつつくように叩き、ここがこうであそこがどうという情報をたくさん仕入れてくるわりに、なぜか渡らない。なぜか。

同僚のひとりは川の向こう側を切望している。きっと素敵な世界があるんだろうなぁと感じているらしい。ちょっと叩いてみるけれど崩れそうな気がして渡る気は起きない。だれかが渡ったら付いて行こうという算段だ。その人が現れれば渡るし、現れなければ渡らない。そんなタイプ。

まっとうに渡るタイプがいないだけに、仕事を進める上でやきもきすることがあるのですが、そうねあなたはそういう叩き方よね。と思えばなんとなく許せるような気がする。今日は梅雨の中休み。

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