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フランク・ロイド・ライトのジャポニスム【アートのさんぽ】 #04 フランク・ロイド・ライト

 

近代建築の三大巨匠というと、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト(1867―1959)のことを指す。そのなかで日本にもっとも縁の深い建築家は、100年前に帝国ホテルを建てたライトであろう。
ライトといえば、世界遺産であるロビー邸や落水荘を思い浮かべるが、その不動の地位を勝ちとるのにとても苦労してきた建築家である。とくにチェニー邸の完成以後の1905年頃から、帝国ホテル完成の1923年頃までの時代は、不遇の時代といわれるが、そのなかで日本との関係を契機に復活していく話は有名である。


F.L.ライト「落水荘(カウフマン邸)」(1936年)

ここでは、ライトが帝国ホテル建設以前に日本の建築、美術に興味を持ち、それを深めていった過程を見ていきたい。とくに不遇の時代は、日本美術のディーラーとして生活を支えた面もあり、日本の建築、美術を糧として独自の建築手法、思想を構築していった面もある。
その契機となった1905年の初来日と翌年にシカゴ美術館で開催した「広重展」に焦点を当てて考えてみたい。
 

日本建築に出会う


ライトはウィスコンシン大学を中退した後、シカゴに移り、1887年にジョゼフ・シルスビーの建築事務所で働きはじめた。シルスビーは東洋美術のコレクターでもあったが、それは日本美術の権威アーネスト・フェノロサの従兄であったことも関係していたかもしれない。ライトはここで約1年間在籍した後、ルイス・サリヴァンの事務所に移った。
サヴァバンはパリのエコール・デ・ボザールで建築を学び、合理的で機能的な建築を目指していた建築家であった。1893年にシカゴ万国博覧会が開催された時、サリヴァンは交通館パビリオンを設計することになり、ライトが建設現場の監理を担当した。
実はこの時、日本政府もシカゴ万博に参加していて、日本館「鳳凰殿」を建設している。これは久留正道が設計したもので、宇治の平等院鳳凰堂をモデルとして、平安期、室町期、江戸期の3つの異なる様式の建物をひとつに結びつける形式を採用した。

「鳳凰殿」 1893年


ライトは、この鳳凰殿の建設プロセスを現場でつぶさに観察し、日本建築への関心を深くした。それはライトの建築思想にとって非常に貴重な経験であった。
というのもライトはそこで、鳳凰殿の異なる様式の複数の建築をひとつに纏める手法を見出したからであった。この手法が1905年設計のユニティ・テンプル(シカゴ郊外オークパーク)の平面計画における複核プラン、つまり礼拝堂と牧師館という2つの核をつなげる計画の発想の原点となったとされる。2つの異なる空間を渡り廊下で繋ぎ、そこを玄関ホールとする方法に結びついたのである。

F.L.ライト 「ユニティ・テンプル」模型

 
また鳳凰殿の中央棟の平面計画は、ライトの住宅建築の基本モチーフにも影響を与えている。中央棟は十字形の配置となっていて、中央の居室が上段の間と次の間に分けられ、その左が配膳の間、右が書斎となっていた。西洋流に言えば、中央にリビング、左にダイニング、右にライブラリーという配置である。この十字形モチーフは、初期プレーリーハウス(いわゆる草原住宅)に少なからず影響を与えたのである。ライトは住宅の中心に暖炉をすえたが、これが居室の床の間にあたる。1903年設計で、1904年建設のエドウィン・チェニー邸では暖炉を中心とした十字形の配置を実現させている。
ライトのすごいところは、単に日本的な建築意匠を引用するのではなく、日本建築のなかにある独自の手法を見出し、それを応用したことである。

F.L.ライト 「エドウィン・チェニー邸」(1904年)


アメリカのジャポニスム


ライトは、帝国ホテルの設計で何度も来日しているが、その最初は1905年早春であった。これ以降、1922年まで7回来日することになる。初来日の目的は、帝国ホテルの設計ではなく、浮世絵版画の収集が主で、建築や文化を見るのが従であったようだ。
ここでアメリカにおけるジャポニスムの状況を押さえておきたい。
アメリカの芸術家で最初に日本美術に興味をもったのはジェームズ・ホイッスラーだった。1850年代のパリ滞在中に日本の美術工芸品に目覚め、1859年にロンドンに移住して、エドワード・バーン=ジョーンズ、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、クリストファー・ドレッサーなどの日本美術品収集熱を刺激した。ホイッスラーは生涯ロンドンで過ごしたものの、1890年代初期には、アメリカにいたメアリー・カサットなどの画家たちに影響を与え、浮世絵への関心を呼び起こさせた。 
そしてアメリカの収集家たちも浮世絵に動き出していた。
デトロイトの実業家チャールズ・ラング・フリーアや、ニューヨークの弁護士ハワード・マンスフィールド、シカゴのクラレンス・バッキンガム、ボストンのウィリアムとジョン・スポールディング兄弟などであった。
彼らはニューヨークに支店のあった山中商会(日本の美術工芸商社)などを通してコレクションをはじめていた。ここには後に帝国ホテル支配人となる林愛作もいた。彼らのコレクションは後年になるとスミソニアン博物館やメトロポリタン美術館、シカゴ美術館、ボストン美術館の膨大な浮世絵コレクションとなっていった。ライトもそういうコレクターの末端にいて、売買もしていた。
 

初来日における浮世絵の指南役、執行弘道

 
最初の日本旅行は、クライアントであったウォード・ウイリッツ夫妻によってライト夫妻が招待されたものであった。ただ日本での行動は別々だったようだ。
この時の日程はライトの来日時の写真アルバムの研究で明らかになっているが、浮世絵をどこで仕入れたのかは明らかになっていない。ただ浮世絵の指南役をしていた人物は明らかになっている。
それは執行弘道(1853―1927)という人物であった。
執行は当時、農商務省の役人で、パリ万国博覧会やセントルイス博覧会の政府委員をしていた。ライトとはどこで知りあったのか判明していないが、執行の経歴を追っていくと接点が見えてくる。
執行は佐賀藩に生まれ、1869年に大隈重信の門人となり、翌年、大学南校(東京大学の前身)に入学する。さらに1871年、大隈の献策によりアメリカに留学している。1874年に帰国し、外務省に勤め、1877年には三井物産に転職し、翌年、香港支店長となる。さらに1880年に起立工商会社(政府補助による日本美術工芸品輸出会社)に移りニューヨーク支店長となる。1884年、当地の愛書家団体グロリエ・クラブの会員となり美術コレクター、チャールズ・フーリア、ルイス・ティファニーらと交わる。
1891年よりシカゴ万国博覧会の予備調査に加わり、1893年5月から10月にかけては万国調査委員(美術部門)を引き受け、フェノロサ、エドワード・モースらとともにシカゴに留まった。1895年には、日本美術のコレクターとして知られるフレデリック・ウィリアム・グーキンらとともにシカゴの愛書家団体の創立会員にもなっている。執行は、シカゴに住んでいた時期にライトと知り合ったものと推測される。
 

京都で出会った武田五一


ライトは、日本旅行を決めた時点から執行と連絡を取り合っていた。ライトが来日して帝国ホテルに滞在していた時、執行から3月18日付の英文書簡が届いていたことがわかっている。
そこには、関西に行くなら京都高等工芸学校の校長で美術評論家の中澤岩太に会うようにとのアドバイスがあった。この時ライトは、京都で中澤に会うとともに、京都高等工芸学校で意匠担当の教授で、建築家の武田五一にも会っている。この武田との出会いが、日本におけるライト建築の受容に大きな影響を与えるが、それは別の機会に譲りたい。
武田五一(1872―1938)は、ライトより5歳ほど年少だが、英国での留学から帰国したばかりで、アーツ・アンド・クラフツ運動やチャールズ・レニー・マッキントッシュ、ウィーン・セセッションなど当時ヨーロッパ最新の動向に精通し、しかも東京帝国大学では茶室建築を研究するなど日本の美術工芸にも通じていた。日本におけるデザイン教育の基礎をなす京都高等工芸学校意匠科の創立に携わり、ライトと出会った1905年には、日本におけるアール・ヌーヴォー建築の嚆矢とされる福島行信邸(現存せず)を設計施工の最中であった。
この二人の間でどのようなことが話題になったのか想像するしかないが、話が尽きなかったと思われる。建築をめぐる状況や日本文化、浮世絵に関することなどが話されたのであろう。透視図の話をしていて、武田が浮世絵の遠近法を紹介し、浮世絵をライトに贈ったというエピソードも伝わる。
 

シカゴでの「広重展」開催


ライトは京都の他に名古屋、奈良、大版、神戸、岡山、高松と回り、旅の最後に日光と箱根を訪れた。とくに西日本の旅行の目的は、執行に紹介された先を訪ねて浮世絵版画を収集したと考えられる。
この日本での版画収集の成果は、翌1906年、シカゴ美術館においてライト・コレクションによる「広重展」の開催として表われた。

「広重展」シカゴ美術館(1906年)


この展覧会はシカゴ美術館におけるはじめての浮世絵展であると同時に、世界で初めての歌川広重展であったといわれる。ここには216点の作品が展示された。
そこには「東海道五拾参次」「江戸名所百景」「六十余州名所図会」「近江八景」といった代表的な作品から「浪花名所図絵」「日本湊尽」といった余り知られていない作品まで展示された。各シリーズ物を見ると全て揃ったものは少なく、自分の目を頼りに集めたということがよくわかる。
この時、展覧会目録が出版されたが、ライトはそこに、広重のもつ日本的な透視図法の面白さだけではなく、浮世絵の豊かな精神性に引かれた様子が記している。
 
「それが作り出す魅力は、精神的なものである。それは(中略)西洋的な物質主義によって聞こえてくるものではない。それは、我々の直感の理解にとっては、抑制されすぎていて、洗練されすぎている。(中略)一種の繊細な楽器である。(中略)それは、それ自身純粋で、愛に満ちた心情で、かつ控え目で、神道のように抑制されていて、仏教のように穏やかである。」("Hiroshige; An Exhibition of Color Prints from the collection of Frank Lloyd Wright" Chicago Art Institute, 1906)と詩的に述べる。


ライトは、広重の作品のなかでもとくに名所江戸百景を好んだ。この縦型の浮世絵のシリーズに新しい空間のアイデアを見つけたのである。限られた版画空間をより広く見せるために透視図法の消失点を外に追いやったこと発見した。
たとえば《名所江戸百景 ハつ見のはし》では、右上に柳の幹があり枝葉が垂れさがり、左下に橋の欄干の一部か描かれているのがフレームとなり、そのなかに富士山の光景が遠景としてひろがって見える。ライトは、この構図をウィリアム・ウィンズロウ邸のパース画で援用し、枝葉をフレームとし、中央に邸宅を配するように描いた。この構図は見る者に絵の中にいるような錯覚を起こさせ、臨場感を与えるものになっている。

歌川広重「名所江戸百景 ハつ見のはし」
F.L.ライト「ウィリアム・ウィンズロウ邸のパース画」
F.L.ライト「ウィリアム・ウィンズロウ邸」(1893年)


また《名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし》では左右両端に木の幹を描いてその間から覗かせるフレームを使っている。ライトは、これをユニティ・テンプルのパース画に応用した。木の幹をフレームとしてユニティ・テンプルを中央に描いたのである。
 

歌川広重「名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし」
F.L.ライト「ユニティ・テンプルのパース画」


このような広重にヒントを得たパース画を含んだ作品集が、1910年にドイツ・ベルリンのヴァスムート社から刊行された。その作品集は、ヨーロッパの建築家たち、たとえばミース・ファン・デル・ローエに衝撃を与えるとともに、ライトの再評価がそこから少しずつ始まこととなった。
ライトは日本の建築や美術を足掛かりとして不遇の時代を乗り切り、帝国ホテルを契機として再浮上していくことになるのだ。
 
(参考文献)『フランク・ロイド・ライトと武田五一 日本趣味と近代建築』ふくやま美術館、2007年
 
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