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串打ち3年

これまでランニングに関する大会出場と感想を長文で書いてきたが、普通に日記を書くことが好きなので取るに足らないことを徒然に書いていこうと思う。


生の穴子を調理した

私は料理が苦手である。いや、もう少し正確に言うと、料理が苦手というより、日々にバリエーションをつけること自体が苦手なのである。
例えばそれほど予定のない土日の休日、朝ランニングをして、昼に家事と少し昼寝をして、夕方に映画でも観に行って外食をしたら満足感が高くて「割といい一日が過ごせたな」と楽しい気持ちで一日を締めくくれたとする。
そういった私にとっての「人生の勝ちパターン」みたいなものを見つけてしまうとなかなかそこから抜け出せないのだ。次の予定のない土日も、次の次の予定のない土日も、、、概ねこの「勝ちパターン」に沿って過ごそうとしてしまう。
本質的に怠惰なのだ。予定を考えることそのもの、すなわち決まり切った枠から外れる不測の事態を面倒くさがる、人生に対するモチベーションの低い愚か者なのだ。

野菜たっぷりトマトカレーを脱したい

そんな愚か者が頻繁に作る料理は「野菜たっぷりトマトカレー」だ。人参、玉ねぎ、牛豚合挽肉、カレー用角切り肉、トマト缶(気分によりナス、パプリカ、大豆などを追加)を圧力鍋に突っ込んで30分煮込み、最後に味噌、醤油、カレールー半箱で味付けをすれば完成する。味噌とトマトの相性は抜群で、牛豚合挽き肉から生み出される旨みとコクがじっくり煮込まれて甘みの引き出された人参と玉ねぎにしっかりと絡む。タンパク質を追加するために赤身の多いカレー用角切り肉も入れておく。怠惰な愚か者がテレワークの隙間時間に作ったとは思えないほどそこそこに美味い、自信作だ。(とろけるチーズとか合わせるともう最高だ。ビールも進む。)

ここにご飯を炊いて葉物野菜のサラダと味噌汁を添えれば、極端に栄養も偏らず悪くない食生活だ。何より、このたった1時間の調理で7〜8食分が確保できる。月曜日に作れば残りの平日は昼夜どちらかをこのカレーを食べることで凌げる。
「怠惰な愚か者のくせに自炊してんじゃないの」そう思う人もいるであろう。鋭い。
それこそがまさしく私の見栄とプライドの境界線である。私が私の自堕落さを適切に受け入れられていれば、きっと毎食米と納豆と卵とプロテインとか、毎食ベースブレッドとかでいいのだ。私にとってのギリギリ「ちゃんと生活している人でいたい」という見栄と体裁を保てるのが、「最低でも平日一食は自炊したものを食べる」なのである。

恐るべき怠惰さを持つ人間が「ちゃんと自炊をしている人」の体裁を保つ最適解、となればもう野菜たっぷりトマトカレーの作り置き一択だろう!
すなわち野菜たっぷりトマトカレーは私にとっての「自炊勝ちパターンメニュー」、私の怠惰さと見栄(プライド)の結晶である。
この愚か者なりに愚か者のままではいたくないという謎マインドはランニングへの取り組みでも発揮されている。本気でやっている人には怒られるかもしれないが、一見ストイックだがそこまで頭を使わずともそこそこ上達できるというのもランニングというスポーツの一つの魅力である。ランニングすらもやらずに本能のまま怠惰に生きていては本物の廃人になってしまうと恐れをなして、私は今日も走り続ける。

自分への問題提起 〜終身雇用が終焉を迎えた世の中で〜

「進まざる者は必ず退き
  退かざるものは必ず進む」

『学問のすすめ』福沢諭吉著

私が穴子を調理した理由は福沢諭吉のこの言葉でほぼ説明可能である。この言葉の前半部は「現状維持とは緩やかな衰退である」ということを意味している。私自身痛烈に感じている、勝ちパターンに沿った生活を送ってしまった自分がその前後で全く成長していないことを、痛烈に。

決まり切った勝ちパターンに陥らずに自分でも予期していなかったような行動を取ることで自分の人生にバグを起こしていく、すなわち後半の「退かざるものは必ず進む」の精神が、元来現状維持指向の私をトマトカレーのぬるま湯から這い出させ、穴子のいる荒波へ飛び込ませるのだ。(穴子が生前荒波に揉まれていたかは定かでない)

時は令和6年、終身雇用や年功序列による日本型雇用は終わり、現状に疑問を持ち、未来を見据えて時代をアップデートさせていく自律した人材が求められる世の中である。私のような怠惰な人間には若干生きづらいが、この時代に生まれてしまったものはしょうがない。
怠惰な自分を変革し、この時代を一歩先へ進める1人になるため、カゴに入れていた合挽き肉を戻し、200円引きシールが貼られた生の穴子を手に取った。

メヒカリによる成功体験

ちなみに私はこの精神により一度成功体験を得ている。メヒカリの唐揚げだ。
数ヶ月前、これまた「たまには自分にバグを起こしますか」という精神になった時に目についたのが同じスーパーの鮮魚コーナーにあったメヒカリだ。一パック15尾くらい入って250円だった。15分でできる簡単レシピなどクックパッドにいくらでも落ちている。これも現状維持を打破してきた偉人たちの功績か、おかげさまで良い時代になった。

レシピ通りに下味をつけたメヒカリの唐揚げは美味くてビールに合い、一見難しそうに見える食材でも先入観で怯えずに挑んでみるものだと思った。

とある気付き

メヒカリの時宜しく、初心者ながら何も参考にせずに未知の食材に挑むほどマヌケではない。上記サイトにぬめり取りの方法からフライパンでの焼き方まで懇切丁寧に書いてあり、準備は万端だ。
しかし、何事も現場・現物・現実が肝心だ。実際に食材に触れてみた時にそれは起こる(というか気付く)。

「これ、ほとんど蛇じゃん、、、」

やってしまった。
いや、気付いてしまった。
自宅に1人でいる時に心霊映像を見てしまって鏡を見るのやお風呂に入るのが怖くなるのと同じ現象である。

普通に魚の切り身を扱ってる分にはなんでもなかったはずの動作が、一度「蛇じゃん、気持ち悪、、、」と思ってしまうと、なんだか悍ましくて逃げ腰になってしまう。
ふと、遠い昔に「魚が気持ち悪くて触れない主婦」が話題になったことを思い出した。特段関心もない話題だったが、恐らく私は心の奥底でどこかこの人のことを馬鹿にしていた。しかし、今、穴子を蛇に見立ててしまい、指先でつまむような腰抜けになっている自分はどうだろうか。
私は初めて「魚が気持ち悪くて触れない主婦」の気持ちがわかった。メヒカリやアジやその他魚の切り身は触れても、アナゴは生理的に無理で上手く触れないのだ。穴子が多少特殊な素材であることを差し引いても「○○は生理的に無理」という同じ主張をする彼女と私の間に、さしたる差はない。

「蛇じゃない、ただの魚」「これはただの魚」「アナゴはおさかな」私は自己暗示をかけて本能的な気持ち悪さを理性で制しながらなんとか調理を続ける。
しかし、芥川龍之介の「羅生門」に出てくる老婆は蛇を干し魚だと偽って販売した罪を責められていた。小学生の当時「蛇が魚って、、、そんなことあるわけないだろ」と心の奥底で突っ込んでいたものだが、「穴子か?穴子と偽ったのか?ならあり得るな」などと、気を抜くとまた意識が蛇に戻ってしまう。理性と本能の狭間で揺れ動きながら、食べられる食材を捨てるのは人間として犯してはいけない悪徳と考えているので最早引き下がる選択肢は存在せず、穴子との格闘は続く。


次の工程で、お湯をかけて包丁の背でこそぎながらぬめりを取る。そのぬめりという半透明の白濁した物体がまた絶妙に臭い。「魚の生臭さ」の嫌なところを集めたような物体だ。換気扇を回しながら、「蛇じゃない、ただの魚」と中途半端に指先で恐る恐る触ってしまう自分に言い聞かせながら、10分ほどこの臭い物体の処理に粘る。
続いて2枚の身をそれぞれ1/3にして、フライパンで焼いた時に丸まらないように串を打っていく。もちろんウチに竹串なんてものはなかったのでこいつのために購入した新品だ。

微妙なミスをやらかす。
合計6切れに切ったので3切れずつを1セットにするとして、串は合計4本必要だったのだが、間違えて2本しか出してなかった。1セット目を串打ちして、あと2本取り出さねばと思うものの、危ない、手が完全にあの臭いになっている。
石鹸で手を洗い直してから串2本を取り出して、もう1セットを作る。やっと穴子らしくなってきたこと&もう素手で触らなくていいことにホッと肩を撫で下ろした。

ここまで苦労してようやく焼きの工程である。
フライパンに油を引き、串打ちした穴子たちを焼き始める。臭みがなくなるように全体的に焦げ目がつくくらいのテリテリの白焼きにしたかったが、串打ちの努力も虚しく、穴子たちはしっかり丸まってきてしまい、あまり焼き目がつかない。この焼き目がつかない真っ白な穴子を見て、大分県に旅行した時に見たアルビノの白蛇の姿を想起してしまい、さらなる食欲の減退を自覚した。(参考写真はあるが、ここに白蛇を掲載すると今後穴子を調理しようと考えている人にもダメージを与えかねないので割愛させていただく。気になる方はググって欲しい。)
「また頭が蛇に戻っちまった、このままではこいつを食えん、、、」このため、たとえ火が通っていてお腹を壊さずに食べる分には問題なかったとしても、真っ白ではダメだ。是が非でも焦げ目をつけて穴子の白焼きに近づけるのが最優先事項となった。
結局出来る限り焦げ目をつけるためには菜箸でコントロールした方が良いと判断し、串から外してしまった。あの苦労した串打ちはなんだったのか。
そんな思慮と葛藤の末、少しだけそれっぽい焦げ目もついてきて、最後は臭み消しになるかと思い、料理酒を入れて蒸し焼きにした。
完成したものがこちらだ。

食べられないほど悪くはなかったが、調理時のぬめりの臭いの記憶や一度蛇に見立ててしまった記憶、それらが実際に目の前の焼き魚に残るちょっとした生臭さを何倍にも増幅させた。
白米のおかずとして食べるはずだったが、白米は付け合わせの納豆と味噌汁に任せて、あくまで栄養・あくまで貴重なタンパク源として、出来るだけ味わわずに、まさしく「片付ける」という表現がピッタリくるような消極的な態度で、懸命に穴子を口に運んだ。これではサバイバルをしていて捕まえた蛇を捌いて食べているのと何ら変わらない。(魚なのに蛇を食ってる気持ちになる、逆羅生門だ)
食べていてちょっと気持ち悪くなってしまったので少し日本酒と合わせた。臭みが酒のアテのように感じられて多少マシだった。
高級食材の名に泥を塗るような扱いをした穴子の恨みなのか、穴子を食べたことによる胃もたれは翌日まで続いた。
仮に蛇や蛙でも食べなければいけないような極限サバイバル状態になった時、私のような内臓も神経も薄弱な人間が真っ先に死ぬのであろう。そう確信するのに十分な経験であった。

串打ち3年

「串打ち3年、裂き8年、焼き一生」は鰻職人の、それだけ鰻の調理を極めるには時間がかかるということを表した格言である。

今回は鰻でなく穴子ではあったが、この言葉を少なからず実感することができた。少なくともあらゆる動物性の食材がかつては血の通う生き物であったし、それら生き物を殺した直後はただの生臭い死骸である。食材はそうした死骸を出来るだけ人間が受け付けやすいように誰かが苦労して処理してくれた成果であり、そんな食材としての穴子を美味しく加工することすらできない私は、それらを生臭くなく美味しく食べさせてくれる人々に多大な感謝と尊敬の念を抱かなければならない。この1時間足らずの経験でそんなことを痛感していた。
「串打ち3年、、、」たかだか料理の一工程に3年とは大げさな、と若干思っていたが、そんなことは決してないのであろう。
生臭い食材を生臭くなく調理できる全ての人に、頭が上がらない。

尚、大手小売のイオンネットスーパーでは私がこれだけ苦戦した穴子を天ぷらにしたものが162円で売っているらしい。amazingだ。
たった162円の穴子の天ぷらは、こうした商業や流通の発展の恩恵を受けて私レベルの怠惰さを持ってしても生存可能になったという、現代特有の幸福さの証拠なのかもしれない。(終)

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