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RUKO

海底でのっしり息を潜めているような、素晴らしく愉快な夜を過ごしていた。俺の全身を覆うこの倦怠感は、きっと水圧に違いない。多幸感は酸素だ。まるで魂魄がぺりぺり剥がされてゆくように、緩やかに俺の口から抜け出てゆく。

「四面楚歌なんて言葉を、楽しい飲みの席で遣っちゃいけない」

昨晩、たまたまバーで隣り合ったおじさんの言葉を思い出した。その時は俺も良い具合に酔っていて、アル中の戯言もありがたいお説教くらいには聞き入れていた。

「はあ、それじゃあなんと言ったらいいんです」

「三国志と言いなさい。さすれば八方塞がりな雰囲気は立ち所薄まり、窮地を凌ぐ意気込みすら湧いてくるだろう。云い方はとても大切だ」

「なるほど。でも俺は、どちらかというと水滸伝の方が好きなんです。なのに横山光輝の文庫版だと、水滸伝は全5巻しかないんですよね。三国志は全60巻もあるくせに」

「なるほど。君と私は何だか似ているな。屁理屈ばかりパン生地のように捏ねまわして、無意味な敵を不毛に増やしてゆく。喧嘩を売り続けることでしか、生きることができないのだな」

「いや、別にそんな生き方をしたいわけではないんですけど」

「君も聞きたいのかね。SNSで、私がヤンキーに流星の如くクソリプを飛ばし続けた挙句住所を特定され、無残にもマルボロで金玉を焼かれたあの話を」

「いいです」

「あれは、私が軒下で線香をポキポキと折っていたときだった。私は、線香が折れる音でしかオーガズムを感じられない体質なのだけど、その日は雨が降っていたせいか、自前の線香が少し湿っていたのだ。なので私は、行きつけの仏具店まで線香を買いに行くことにした」

俺の右隣からは、おじさんの独り言がブツブツと途切れることなく聞こえてくる。最初は間違いなく俺に向かって話していたのだろうけれど、俺が匙を投げてからというもの、おじさんの言葉という名のポイズンは全て、目の前のブラックニッカの空き瓶へと集中砲火されていた。瓶に書かれたキングオブブレンダーズも、心なしか「もう勘弁してください」みたいなニュアンスの表情をしている。

俺は視線を前に戻し、再度目の前の酒と向き合うことにする。基本的に、俺は酒を飲むときは1人だ。というか、1人のときしか酒は飲まない。複数人の仲間で集まるときは、そもそも酒場の類にはあまり足を運ばない。元来飲酒という行為が、それほど好きではないのだ。

俺が愛してやまないのは酩酊であって酒ではない。酩酊が得られるのであれば、そこに至る手段は問わない。最も手っ取り早い手段がアルコールであるというだけのことで、同様の状態に至れるのであれば、それが粉末であれ、粘液であれ、一向に構わない。酒である必要はない。うまいまずいを気にしたこともない。

カクテルグラスが、淡い照明をゆるゆると吸い込み美しく光る。

「あの、注文いいですか」

俺がいい具合に酔っていたときだった。左隣に座る女性が、バーの店員にそう告げた。意識して見ていなかったので気づかなかったのだけど、俺の隣に座っていた女性は、かなり目を引く外見をしていた。例えるなら、ドカベンの山田太郎がそのまま女体化したような、そんな風貌だった。きっとこの女性は、別にデカくもなんともない普通の弁当箱を使っているにも関わらず、見た目の雰囲気だけで意味なくあだ名がドカベンになるタイプだ。

「はい。大丈夫ですよ」

「ガソリンをください」

店員は「かしこまりました」と言うと、カクテルグラスに副とガソリンを注ぎドカベンの前に置いた。

「今はリッターおいくらですか?」

「隣のガソリンスタンドから盗んでいるのでタダです。買うとリッター150円くらいでした」

「それはよかった。そんな高い液体を、車なんぞに飲ませてやるわけにはいかない」

ドカベンはそう言うと、まるで親の仇とでも言わんばかりに目の前のガソリンを一気に飲み干した。「五臓六腑に染み渡るワイ」と叫んだと思ったら、突然立ち上がり俺の右隣に座るおじさんの顎を手刀で砕く。

「まてよ。ガソリンを飲んだってことは、酒税とガソリン税と消費税の、三重課税の網を、私は潜り抜けたってことだな。ギャハハ。ざまあみろ。神になった気分だ。ウッ!」

ドカベンの顔が露骨に歪む。ガソリンは、確か成人男性でも50ml程度の摂取で致死量だったはずだ。化け物のような風貌の彼女であっても、内臓は人間だったのだろう。

「おい!そこのお前」

「俺ですか?」

「タバコだ!タバコをよこせ!うんと強いやつだ!」

「セブンスターしかないですけど、いいですか?」

「おおそいつだ!そいつがいい。これを吸えばこの喉のただれも治る」

そう言うと、ドカベンは勢いよく俺のセブンスターを吸い込んだ。間違えてフィルターの方を吸ってしまったようだが、吸引と同時にドカベンの体は木っ端微塵に爆発したので、どちらを吸おうがそれほど関係はなかった。
体内に溜まっていたガスのせいだろうか。ドカベンの体のパーツは、勢いよく四方八方に散らばった。吹き飛んだ右手は男子トイレの引き戸にめり込み、吹き飛んだ左手は高く積まれたシャンパンタワーを粉々にした。生首は天井を突き抜け、2階にあるピンクサロンの個室へと至る。「ビックリしておじさんイッちゃったよ」と声が聞こえた。

声は、俺の脳内で反芻する。転じて、何度も呼びかける。

気付くと俺は公園のベンチにいた。悪夢のような、愉しい愉しい夜が明けた。頭がジンジンと痛み、身体を覆う倦怠感は一向に回復には向かわない。逆の場所に向かっている。まるで俺そのもののようだ。

「君じゃなくて、水圧だろう」

顎を砕かれたおじさんが、俺の隣で俺のタバコを蒸している。

死にたい気持ちと穏やかな気持ちが混在した、本当に綺麗な朝だった。
ふらふらした頭を抱え、俺はベンチから立ち上がる。「タバコ代くらい返してくれよ」と、俺は覚束ない足取りでおじさんに告げた。

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