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日本のディーゼル機関車DD11型がハノイで復元〜静態保存で日越友好の証に〜

 2023年2月24日、ハノイ市郊外。日本からの代表団とともに著者はある工場にやってきた。工場の扉をベトナム人工場長が開く。すると鮮やかな朱色にいろどられた車体が目にとびこんできた。運転室の屋根上は灰色、車体をとりまくように帯状の白色がアクセントになっている。ディーゼル機関車DD11型2号機。日本・汽車製造が戦後初のディーゼル機関車として1956年に製造した1台だ。数ヶ月前まで、ザーラム機関車工場の片隅に、打ち捨てられ、廃車同然の無残な姿をさらしていただなんて誰が信じようか。今やベトナム人工員たちの手によって、機関車DD11型2号機はよみがえった。1977年、国鉄労働者をはじめとする交通関係労働者の産別組織である全日本交通運輸労働組合総連合会​​(全交運)がベトナム国鉄にその戦勝を記念してこの機関車を贈呈した、その当時の姿そのままに復元された。
 この復元保全の運動に途中から関わった私ですら感動したのだから、この機関車を発見し、その修復と保全を進めてきた日本ベトナム友好協会・東日本鉄道支部のみなさんにとっては感無量だったに違いない。
 日本でもベトナムでもまだあまり知られていない日本の鉄道労働者とベトナムとの友好と連帯の歴史の一幕をこの一文をもってみなさんにご紹介したい。

復元なったDD11型2号機

ベトナム戦争と反戦運動の時代

 今から半世紀前、ベトナムは戦場だった。米軍による空爆で北部ベトナムは瓦礫の山と化した。南部ベトナムではゲリラ戦が展開され、南ベトナム政府軍と米軍とによる掃討が続いていた。連日のように戦場での悲惨さが伝えられた。
 アメリカとソ連が対立し、世界は陣営を二分して緊張関係にあった。しかし大国同士の戦争は忌避された。核戦争となれば勝者のいないたたかいとなる。核の優位を背景に互いに牽制し合って大国同士の直接対決は避けられたが、各地の紛争において自らの陣営にある国を経済的、軍事的に支援した。大国同士にとっては冷たい戦争、冷戦だったかもしれないが、熱い戦争、互いに大量の犠牲者を出す戦争が行われた。当時その最大の焦点はベトナムだった。
 アメリカによるベトナムでの「内戦」への介入が長引くと、世界の人々からの支持が得られないどころか、米国はベトナムから撤退せよ、との声が地球上にあふれた。米国、欧州、そして日本でもベトナム反戦運動が高まった。1960年代後半から1970年代初めのことだ。
 日本では労働組合、学生、市民まで幅広く、思いおもいの運動が繰り広げられた。デモ、ストライキなどの大衆行動も頻繁に行われた。
 私の両親も反戦運動にかかわっていたため、小学生だった私は両親に連れられて米軍横田基地の包囲デモにも参加した。
 「アメリカはベトナムから出ていけ」とのシュプレヒコールが今も私の記憶の底に刻まれている。
 ロシアのウクライナ侵攻がはじまって1年が過ぎたが、あの時のような反戦運動が高まるような気配はない。
 
 ベトナム反戦運動の中でも労働組合、特に国鉄労働組合はたたかう労働組合として運動の先頭に立っていた。特に米軍基地へのジェット燃料など軍需物資の輸送などを担わされていた国鉄の労働者はベトナム戦争への加担を拒み、国民の安全を守るため、燃料輸送を阻止する遵法闘争をもってたたかった。1972年には米軍の戦車が相模総合補給廠から横浜へ搬送されるのを阻止する戦車闘争が行われ、政党や学生、市民、労働組合がそれぞれのベトナム反戦への思いを座り込みという形で表現し、戦車の輸送を100日間の間とめた。
 当時、この闘争のことを日本語の短波放送で知ったホーチミン市の郊外、クチトンネルにこもっていた南ベトナム解放戦線の兵士たちは大きく勇気づけられたと語る元ゲリラ兵士の声を、ベトナム戦争の戦後四半世紀を経て聞くことができた。

戦争集結、ベトナムにディーゼル機関車を贈る

 1973年、4年にわたる交渉の末、パリ和平協定が米国と南北ベトナム政府の当事者間で締結され、米軍は撤退。その後平和裡に統一選挙が実施され、新しい政体が生まれることが期待されたが、結局北ベトナム軍が南部に侵攻し、武力によって南北の統一は成し遂げられた。1975年4月30日、南ベトナム=ベトナム共和国は瓦解し、長かった戦争は終わりを告げた。国鉄労働者にとってベトナム戦争が終了し、ベトナムが南北に統一されたことを歓迎したのは想像に難くない。
 
 ベトナムに南北統一した社会主義共和国が成立した1976年、東京でアジア太平洋諸国の交通運輸労働者の集う「第1回アジア太平洋交通運輸労働セミナー」が開催された。
 この時のベトナム国鉄労働組合との会談で、南北統一鉄道を走行する機関車が不足している、日本から機関車を援助してもらえないかとの相談が持ちかけられた。
 国労をはじめとする交通運輸労働者で構成された全交運では組合員のカンパニアで機関車のベトナムへの贈呈を決定した。
 ベトナム側の希望では、機関車は重量40トン未満、1000mm軌道(メーターゲージ)のものを贈って欲しいとのことだった。そこで選ばれたのが、汽車製造社製のDD11型だった。
 日本は蒸気機関車の製造については技術も確立し、D51型など優れた性能の蒸気機関車も作り出していた。
 蒸気機関車の燃料は石炭である。石炭をたき、その熱で水を温め、蒸気を発生させ、その蒸気圧で車輪を駆動させる。ただ火の粉も煙突から噴出する。
 戦後、米軍が日本に進駐し、その米軍基地に石油などの燃料を供給しなければならない。燃料の輸送に用いられたのは国有鉄道だった。
 燃料を積載した貨車の、基地への引き込みや入れ替えには蒸気機関車では具合が悪い。蒸気機関車は石炭をたくので、煙突などから火の粉も吹き出す。燃料への引火が懸念されたからだ。
 そこで米国から輸入されたのは石油から精製されたディーゼル燃料で走るディーゼル機関車だった。この機関車はディーゼルエンジンで発動機を回して電気を起こし、その電気で電動モーターを回転させ車輪を回す、今で言えばハイブリッド車のような機関車だった。
 一方、日本の汽車製造で開発されたDD11型はディーゼルエンジンで直接車輪を回す機関車だった。エンジンから車輪へ動力を伝えるのに「液体」が使われたので、「液体式」といわれた。ただ、トルクも小さく、蒸気機関車のように車輪と車輪の間はロッドで連結された。ただC12型蒸気機関車の半分の牽引力しかない非力な機関車だった。国府津、久里浜、新鶴見、早岐、小郡機関区の操車場などで使用され、76年には廃車が決定した。特に国府津機関区久里浜支区にあった際には横須賀近辺の米軍基地でジェット燃料輸送や入替用に使用されていた。
 国労は国鉄からそのDD11型2号機を払い下げてもらうことにした。全交運は組合員に呼びかけカンパニアをつのり、機関車の代金と改修費、輸送費に当てた。
 組合員の中には昼食一食分をカンパにあてるものもあった。ベトナム人民支援を続けてきた彼らにとって、ベトナムがアメリカとそのかいらい政権に勝利したことはうれしいことだったに違いない。カンパはたちまちにして集まった。
 運動の途中でDD11型のような小さな出力の機関車ではなく、南北統一鉄道を客車を牽引して走る大型のものが欲しいとベトナム側が伝えてきた。日本側は小型な機関車でも操車場や工場の入換用に十分使えることを説明して、先方の了解を得る一幕もあった。
 DD11型は日本の狭軌(1067mm幅の軌道)からメーターゲージ(1000mm)へと変更され、必要な整備を行なった。担当したのは兵庫県神戸市須磨区にあった鷹取工場の国鉄労働者たちだった。整備にあたり労働者たちは天井の板の裏側に寄せ書きを行なった。
 そのことがわかったのは、ベトナムで静態保存のための修復を行なっている最中だった。天井を剥がしたベニヤの裏側に文字が記してあるのを発見したのはザーラム機関車工場労働組合の委員長だ。何やら文字が記載してあるので、たまたま著者が工場を訪れた時だった。
 「ベトナムの平和と繁栄を祈る」「ベトナム民族(解放)闘争勝利萬歳」という大きな文字、そして1976年12月15日の日付、国鉄労組鷹取支部とあり、30名あまりの署名が記されていた。

日本の技術団4名がベトナムに、でも…

「オデッサ号」に船積みされるDD11型2号機

 整備が完了し、全交運労組が壮行会を行なった。1977年1月のことだ。そして同年2月、DD11型2号機は貨物船「オデッサ号」に船積みされ、ベトナム・ハイフォンに向かった。
 同年4月には瀬戸団長をはじめとする全交運技術団4名がベトナムに派遣された。旅行期間は移動日を含めて19日間だった。ベトナムに車体と車台とを分離して船積みしたので、それを現地で組立を指導するという目的だった。
 当時、もちろん日本とベトナムとの間には直行便もなく、北京を経由してハノイ入りしたようだ。ハノイのノイバイ空港に到着してみると、ベトナム鉄道側の出迎えもなく、空港でオロオロしていると、たまたま空港にいた日本人や大使館員に助けられて、ようやくハノイ市内へたどりついた。
 ハノイの工場では寄贈した機関車を組立、走行試験をすることまで想定していた技術団であったが、まだ貨物はハイフォン港にあり、港の混雑でいまだ沖合にあって、ハシケを使用しての輸送も、紅河の水位が低すぎることから実施できていないとの報告を受けた。ベトナム側はいちはやく貨物が受け取れるように努力をし、技術団は滞在日程を延期もしたが、結局滞在中にDD11型機関車を目にすることはできなかった。
 ベトナム訪問の日程をみると、15日ばかりの滞在の間に、技術的な打ち合わせ、相手側のベトナム鉄道労組などへの表敬のほか、ホーチミン市、ブンタウ、ハノイ、ハイフォン、ハロン湾を訪れ、観光したことも技術団の訪越報告集に記載されている。
 報告集には1977年当時の貴重なベトナムの写真が数多く掲載されている。現在ならさしづめオートバイの波に驚くところだろうが、当時は自転車が数多く市内を走っていることに驚きを見せている。
 冊子の最後には、同年7月にDD11型2号機が無事走行を開始したことを伝える写真と、そのことを伝える電文が紹介されている。機関車の運転席の側板には「日本全交運労働組合の贈物」という文字が日本語とベトナム語で記載されているのが確認できる。ベトナム側で書き加えたものだろう。

周辺国と紛争、ボートピープルでベトナムは「堕ちた英雄」に

 その後の歴史はベトナムにとって不幸な歴史の連続であった。1977年末、ベトナムがカンボジアへ「侵攻」し、1978年初には親ベトナム=ヘン・サムリン政権が樹立された。クメール・ルージュ、ポルポト派による自国民に対する虐殺行為も明るみにでたが、国際的にはベトナムの軍事行為はカンボジアへの侵略であると見なされて、以来戦争が集結する1991年まで、ベトナムは国際的に孤立した。
 同時に中国は親中国であったポルポト派と闘うベトナムを懲罰し、ベトナム国内の中国人に対する迫害を理由に中越国境に自国の兵を進め、中越間で戦争がはじまる。1979年のことだ。以後、1980年代末ごろまで、中国とベトナムの国境を挟んでの紛争が断続的に発生している。当時は中国の、同じ社会主義国への「侵攻」は国際問題にさえならなかった。
 南部の急速な社会主義化、集団化と米国をはじめとする国際社会からの禁輸措置、ソ連・中国からの経済援助が尻すぼみになるにつれ、ベトナムの経済は破綻した。おかげで政治的、経済的難民としてベトナムから小さな船を使って逃げ出す人々、ボートピープルも発生した。その数150万人とも言われている。船で東南アジア諸国や日本などにたどり着いたものはよかったとしても、途中で悪天候のために転覆したり、海賊に襲われたり、到着した浜辺で虐殺された例も多い。

 1970年代後半から1990年代の前半まで、ベトナムは国際的に孤立し、日本の政府もベトナムへの政府開発援助を取りやめ、ベトナム戦争当時には反戦運動をあれだけ支援した労働者、学生、市民もベトナムへの関心を失った。戦争が集結し、いよいよ復興という時にカンボジアに侵攻し、中国からの干渉戦争を招き、経済的には破綻して国民はベトナムから逃げ出していた。日本人の目からみたら、ベトナムはまさに「堕ちた英雄」だった。

ディーゼル機関車DD11型2号機がハノイ機関車工場で発見

ザーラム機関車工場(ハノイ)の構内で発見されたDD11型2号機

 1986年、経済的に行き詰まったベトナムはとうとうドイモイ政策を決定した。国内的には計画経済から市場経済化を、外交的にはソ連とその同盟国とのみつきあうことから、西側諸国とも外交関係を築く全方位外交へと舵をきる。そしてその後、中国ともアメリカとも関係改善を果たし、ASEAN諸国もベトナムの変化を歓迎し、インドシナ半島を「戦場から市場へ」と導き、ASEANの枠組みに迎えられた。日本の政府開発援助(ODA)も再開された。
 以後、ベトナムは新しい投資先として世界中から注目が集まった。繊維や製靴、電気・電子関係、自動車・オートバイメーカーがこぞって進出した。 
 大きく経済成長を遂げたベトナム。その姿をみようとかつてベトナム反戦運動にかかわった人たちが、再びベトナムを訪れるようになった。2000年ごろ、元ベトナムに平和を市民連合の人々や、労働組合の活動家たちもベトナムにやってきた。

 2014年11月、元国鉄労働組合のメンバーで構成された日本ベトナム友好協会・東日本鉄道支部のメンバーがベトナム旅行に出かけた。その際、ハノイ郊外にあるザーラム機関車工場を訪ねた。ザーラム機関車工場はフランス植民地時代に建設され、ベトナム戦争当時も空爆によって破壊されながらも復興し、ベトナムの鉄道に供される機関車や客車を製造、修理してきた伝統ある工場だ。
 元国鉄労働者だった旅行参加者の一人がザーラム工場に対して「1977年に日本から贈られたディーゼル機関車DD11はその後どうなったのか」との問いを放った。すると「当工場にまだある。機関車のあるところまで案内する」との回答だった。工場側に案内されていきついたのは工場内の草で覆われた留置線の奥の奥だった。草をかき分けるように進むと目の前に赤さびて、草や樹木に覆われた無残な姿となったディーゼル機関車DD11型2号機だった。
 旅行参加者の一人、中里さんは元国鉄労働者だった。彼が最初に勤務した職場は久里浜機関支区で、まさしくこの機関車DD11型2号機を磨く仕事もしたという。同機関車が久里浜にあったのは昭和35(1960)年から昭和43(1968)年のことだから半世紀ぶりの再会だっただろう。運転台によじのぼると、就職当時のことやベトナム戦争反対の行動のことなどが走馬灯のようにかけめぐったという。
 実はこの機関車との再会の裏にもドラマがあった。
 2014年当時、ザーラム機関車工場の工場長はター・マン・タン氏。彼は1996年に日本のJR東日本秋田・土崎工場にて海外研修生として研修を受けた。日本での滞在期間に習い覚えた日本語の単語も少しは口をついででる。娘さんも日本に留学させたほどの親日家でもあった。
 同工場は2016年に民営化されているが、その過程において、タン工場長は自社の資産帳簿を確認した際に、機関車DD11型の記載があることに気づき、構内を探したところ、草に埋もれた機関車を発見したのだ。ベトナム側もその存在すら長らく忘れていた。タン氏は、その機関車の経緯を調べ、日本の交通運輸関係の労働者がカンパニアで贈られたものだと知って、廃棄することなく保管することを決めたのだった。

機関車、カンパニアで復元へ

日本ベトナム友好協会・東日本支部の代表団と復元されたDD11型2号機

 2017年、東日本鉄道支部のメンバーは再びザーラム機関車工場を訪れ、工場側と相談し、機関車の修復をザーラム工場が担当し、静態保存しようという方向性が打ち出された。ただし、ザーラム工場は民営化したばかりで、資金的余裕もなく、復元のための費用は自弁できないとのことだった。
 そこで東日本鉄道支部では、日本で旧国労のメンバーに呼びかけて、カンパニアを募り、その資金でディーゼル機関車DD11型2号機の復元を行うことにしたのだ。
 DD11型は日本初の液体型ディーゼル機関車だが、静態であっても現存する機関車は日本にも存在しない。1977年にベトナムに寄贈された機関車でもあり、それを復元してベトナムに日越友好の証としても静態保存しようという運動はじわじわと賛同の輪が広がっていく。現国鉄労働組合の委員長にも申し入れ、賛同を得た。
 2019年には東日本支部の主要メンバーが訪越し、ザーラム機関車工場と覚書をかわし、静態保存のための復元修復を工場側が引き受け、その費用を主に日本側が負担することが決まった。
 2020年には、コロナの感染が世界中に拡大しはじめ、ベトナムはゼロコロナ政策のため、国際線の往来を停止する。日本とベトナムとの人の行き来もままならない。機関車の静態保存のプロジェクトも頓挫してしまった。
 工場側は2022年が日本の鉄道150周年ということもあり、ぜひそれに修復を間に合わせたいとの意向もあって、2021年にはベトナム側が修復見積書を提出してきた。その金額がちょうど、その時点までに集まったカンパニアの金額とほぼ同じだったため、コロナ禍であっても事業は進めようと日本とベトナムの間でリモート会議も実施した。
 2022年7月、東日本鉄道支部の代表がザーラム機関車工場を訪れ、寄付で集まったお金を工場側に手渡し、7月末から100日後、すなわち2022年11月には復元を完了させるとの覚書に両者が署名した。その間、著者が1ヶ月に一度、工場を訪問し、復元作業を日本側に報告する役目もおおせつかった。そして年内には復元作業は終了した。
 2023年2月、東日本支部のDD11型2号機復元の披露式に訪れた。そして本文冒頭でご紹介したように、日本からの代表団が機関車を目の当たりにしたのだった。
 DD11型2号機がザーラム機関車工場に発見されたのが2014年、そして募金が開始されたのが2017年、募金が開始されてから6年の歳月が経った。コロナ禍で中断したものの、機関車は復元された。
 現在はザーラム機関車工場に一時的に保管されているが、今後は多くの鉄道ファンや一般の人々に日越友好の証としてご覧いただきたいというのが日越双方の願いだ。
 保管場所についても、工場側はザーラム機関車工場の敷地内を、ベトナム鉄道労働組合はハノイ鉄道学校を、その候補にあげている。ベトナム鉄道本社には日本の大宮にあるような「鉄道博物館」の建設も視野にいれているので、もし博物館ができるのであれば、このDD11型2号機も展示してもらいたいものだと考えている。
 日本ベトナム友好協会・東日本鉄道支部では、保管のための上屋建設や維持費のためのカンパニアも引き続き行うとしている。
 ハノイとホーチミン市を結ぶ新幹線構想は、その投資金額があまりにも巨額であったため、ベトナム国会で否決されたものの、従来のメーターゲージから標準軌(1,435mm幅)高速で走行する旅客・貨物両用の南北高速鉄道計画を政府はすすめている。この計画に対して日本の参加をチン首相が求めていることがベトナムのニュースで報道された。この計画に対してはスペインをはじめとする他国も協力を申し出ているようだ。2030年には起工をめざすとも報道されており、いよいよ計画は本格化する見通しだ。
 日本とベトナムの鉄道をめぐる交流は息の長い歴史をもつ。日本の鉄道技術がベトナムに活かされる日がくることを期待しよう。

文=新妻東一

 
 

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