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競争と協奏のはざまで -映画ドラえもん『のび太の地球交響楽』

 ドラえもん映画の最新作『のび太の地球交響楽』を観てきた。

学校の音楽会に向けて、苦手なリコーダーの練習をしているのび太の前に、不思議な少女ミッカが現れる。のび太の奏でるのんびりとした音色が気に入ったミッカは、音楽がエネルギーになる惑星でつくられた「音楽(ファーレ)の殿堂」にドラえもんやのび太たちを招待する。ミッカはファーレの殿堂を復活させるために必要な音楽を一緒に演奏する、音楽の達人を探していたのだ。ドラえもんたちはひみつ道具「音楽家ライセンス」を使って殿堂の復活のため音楽を奏でるが、そこへ世界から音楽を消してしまう不気味な生命体が迫ってくる。

あらすじ(映画.comより引用)https://eiga.com/movie/99779/ 

 ひとことで言えば傑作である。「音楽」という新しいテーマ、原作のいくつかの短編からひとつの長編を組み立てる編集力、極音上映の音響、異世界での冒険をいきいきと伝えるビジュアル、「敵」の設定に関する新しさなど、総合的に満足度の高い作品だった。小さな子どもたちも大きなお友だちも、ぜひ劇場でこの映画を楽しんでほしい。

 そのうえで、この作品が提起した問いを考えたい。この作品に通底する価値観は、「競争」の否定と「協奏」の肯定である。マウントをとったり下手な人をけなしたりせず、一緒に演奏しようとお互いが協力しあえば、誰もが音を楽しむことができる。
 では、「競争なき協奏」はありうるのだろうか。
(以下、ネタバレが嫌な方は、鑑賞後に読まれることを推奨したい。)

 確かに、物語の展開上はそうなっていた。協奏すると事が前に進み、競争すると雲行きが怪しくなる。例えば、のび太と仲間たちが共に音楽を奏でると「ファーレの殿堂」にエネルギーがたまり、殿堂が復活に近づく。だがジャイアンとスネ夫が互いの演奏についてマウントをとりあっていると、「不気味な生命体」に遭遇しトラブルを招いてしまう。

 そもそもこの物語自体が、「競争」についていけないのび太のコンプレックスを解消する話である。
 今回の「敵」は、作中で「ノイズ」と呼ばれている。上記のあらすじにもあった「世界から音楽を消してしまう不気味な生命体」である。そして作中の描写によれば、音楽会の練習を嫌がるのび太が「あらかじめ日記」で地球から音楽を数時間消したことにより、「ノイズ」が地球に近づけた、ということになっている。そして最終的にのび太は仲間たちと大勢の演奏者とともに音楽を奏で、「ノイズ」を消滅させる。
 この物語を一言でいえば、「競争」に疲れ音楽を消そうとしたのび太が、音楽の価値に気づき「協奏」へと向かう話である。

 しかしここで疑問が生じる。協奏するには練習と上達が必要ではないか。そして、練習と上達を促すためには、競争という外からの力も必要ではないか。

 事実、「競争なき協奏」の反証となるような現象もこの物語の中に見られる。
 例えば、楽器を手にしたばかりののび太たちに、モーツェルというロボットが演奏の仕方を教えるシーンがある。モーツェルは、管楽器への息の送り方、打楽器の叩き方など、感覚的なテクニックを見事に言葉にして伝えている。その教え方は確かに優しく、巧みである。
 だがこの場面が結果として示しているのは、楽器を演奏するうえでは好きなように演奏するだけでは足りず、真っ当なやり方を身につける必要がある、ということである。

 私たちは、文明の進歩の中で音楽という文化を築いてきた。その一端を学校教育により継承し、自分の好みに応じて世にあふれる音楽を消費し、あるいは創っていく。音楽という文化が職能のひとつ、学問分野のひとつとして成立し、音楽の教育・研究や生産・流通をめぐる制度・構造ができあがる。そうしたなかで、あるタイプの音楽は中心に置かれ、別のタイプの音楽は周縁に置かれるようになる。

 例を挙げよう。作中で散々イジられる「の」の音、すなわちのび太の(下手な)リコーダーの演奏は、この動画のようなものだ。

 私たちはこのタイプの音を「ネタ」として消費する。一方で、次の動画のような演奏を、私たちは「ガチ」なものとして鑑賞する。

 のび太は作中で練習し、上達している。冒頭のシーンでは、前者の動画のように間の抜けた音であった。一方、クライマックスの合奏では後者の動画のようにオーケストラの一角をなしている。
 作中、のび太は練習する動機を「みんなと演奏したい」と述べていた。しかし、みんなと演奏するためには、「の」の音のままではいけない。ガチの演奏にネタの音が混じっていては、笑いが起きてしまうからだ。
 協奏するためには、個性(「の」の音)を練習により矯正し、集団(オーケストラの演奏)に追いつかなければならなかった。そこには、みんなと同じことができるように、もっと上手くなろう、という競争の原理が欠かせなかった。

 協奏のためには練習と上達が必要である。そして練習と上達を促すためには、競争という外からの力も欠かせない。

 とはいえこの結論は、競争を無批判に支持することを意味しない。「教育虐待」や「内申点」といった具体例を挙げるまでもなく、教育が学習意欲の喚起を集団の圧力と競争の強制力に頼りすぎているのは事実である。
 子どもが何をどのように学び、その学びを大人がどのように設計し支援するのか。競争と協奏のあいだで、私たちはより良いあり方を模索し続ける必要がある。音楽の授業が、競争への疲れからノイズの胞子を招き寄せるのではなく、協奏への喜びからファーレを奏でるものとなる未来を目指して。

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