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「濃い霧が出ていた日、アナウンスの流れる駅のホームであわく薄荷のにおいがしていたことについて」

谷春声さんは濃い霧が出ていた日、アナウンスの流れる駅のホームであわく薄荷のにおいがしていたことについての話をしてください。
#shindanmaker #さみしいなにかをかく
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「ただいま、濃霧の影響で、始発電車の運転を、見合わせております」
 聞き取りやすくするためだろうか、読点の多い自動音声の読み上げだった。確かに、私たち以外誰もいない駅にも霧が立ち込めていて、ホームの端までも見渡せない。
 この駆け落ちは、また失敗するのだろうか。
 不安が私の心にも立ち込めてきて思わず、隣に腰掛ける彼女の顔を見遣った。
 彼女は上着のポケットに手を突っ込んで、目を閉じたままだった。先程見た時と同じ体勢だ。ただマスクの下、口の中で飴を転がしている音だけがからころと聞こえてくる。まるで壊れかけのおもちゃの兵隊が歩いているみたいな、嘘みたいに軽い音。
 微かに薄荷のにおいがする。
 口の中が一気に冷たくなるような気がするから私はあまり好きではないけれど、彼女は眠気覚ましになると言って、よく口に放り込んでいる。
 目、閉じているけど。
 電車に乗ったら終点まで降りないつもりだったから、座席で寝られると決め込んでいた。でも当分先のことになりそうだ。
 本当は、今にも彼女の家の黒い車が駅に横付けしてきて、無情にも連れ戻されるのではないかと気が気ではない。彼女の落ちつき払った姿勢を目にしているからどうにか座っていられるだけで。
 がり、と飴を噛み砕く音が響いた。
 反射で彼女の顔を見ると、藍色の瞳が覗いていた。目の前の霧中を睨みつけるように見据えている。
 まさか、権力を行使して電車を止めているのは、いや、霧を発生させているのが彼女の家だとでもいうのか。
 いや、まさか、そこまでは。
「歩こう」
 彼女は一言で済ませると、片手でキャリーケース、片手で私の手を握って立ち上がった。ポケットに入っていた手は暖かかった。
 私も慌てて鞄を背負い直してついて行く。
「え、でも」
 ついて行きながらも躊躇の言葉が出てしまう。
 家を出てきたときは、日の出までまだ時間があって真っ暗だったから人目につかなかったものの、今から往来を歩いていては目立つだろう。捜索されているとしたら尚更。
 しかし、彼女はベンチのあった駅舎から離れ、ホームの端、先頭車両が止まるほうへと歩を進めている。ホームの隅には柵があるが、本気で越えようと思えば訳のない、ちゃちなものだ。
 昔の映画よろしく、線路を歩いて行く気なのか。
 私はそこで初めて、彼女がしようとしているのがごっこ遊びなどではないのだと実感した。と同時に、線路を行く「程度」で達成できるものなのか、いまいち確信が持てなかった。


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