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Netflixドラマ『サムバディ』

 時刻表通りに電車がホームに滑り込むのを当たり前に思っている。だから数分でも遅れればあちらこちらのスピーカーからお詫びと謝罪のシャワーが降り注ぐ。普段からこのような環境で生活を続けていると、予定通りに事が運ぶのがノーマルで、それ以外は異常事態に感じられるようになる。究極の予定調和こそが快適だとなると、相対的に世の中にはアブノーマルの領域が溢れてくる。だから都合の悪い事には目を瞑ったり脇に避けたり、見えないところに葬り去ったりする。

 トップアスリートでも無ければ自分の身体すら自在に制御出来はしない。それが本来の人間だ。
 自然や社会ははなから人間の力の及ぶところではないのに、それなのに私たちは思い通りにしようとしてきた。そして今では、思い通りに行くものだと思い込んでしまっているようにも見える。

 人が持っている能力や属性、資産や稼ぐ力、ゲームで言えばヒットポイントやスキルポイントによって人を判断するのが主流になって久しい。その世界では、直感や偶然は忌み嫌われる。
 だから条件を指定して探してくれるマッチングアプリは重宝される。
 自分では制御出来ない何かに出逢うまでは。

 ある意味で人間の本質を炙り出すこの作品。登場人物の多くは観ている人が容易には共感できないキャラクター。だから彼や彼女らのような面は自分には無いと思うのは容易たやすい。
 けれども本当にそうだろうか。
 あなたはどれだけ家族や友人のことを本当に理解しているだろうか。親しいからと言って本当に深いところまで理解でき得るものなのだろうか。分かったつもりになっているだけではないか。そうしないととても平静に生きてはいけないから。

 この作品の根底には、あらゆる事が人にとって制御不能にも関わらず、制御可能と思い込んでいる現代の世界観の否定がある。
 制御出来ないそれは、生まれついて持っている境遇かも知れないし、親から受け継いだ遺伝子かも知れないし、偶然遭遇する事故かも知れない。
 そもそも人と人の出会いは偶然のなせるわざのはずが、神視点で条件検索出来ると思ってしまうことの異常さに気が付かなければならない。

 異常性のある犯人のサスペンスの文脈の中に、裸になってさらけ出す様々なシチュエーションが織り交ぜられている。受け止める人の存在がいる事が救いになるのか、それともそれは呪いなのか。
 主人公がいるようでいない物語の果に待つ衝撃の結末は、予想できていたこととはいえ、あなたの心の奥底をえぐり出そうとしてくるに違いない。

おわり


 

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