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あなたの労働価値はいくら?

 過労死が多い産業であるとして労働時間の制限が設けられた運輸業界。労働環境の改善が目的であるが、これによって様々な問題が起きるとされている。いわゆる2024年問題だ。

 運輸業界は、収入を維持するためには多少辛くても労働時間を伸ばす他ないとして、時間あたりの平均賃金が低いと言われてきた。
 多重下請け構造とコストアップを価格に転嫁しにくい構造の要因は、1990年代の運輸自由化によって起きた過当競争、すなわち中小事業者の増大にあったとする見方がある。
 仕事を取るためのダンピングと過剰サービスが状態化し、荷主もその状況に甘んじてきた。

 報道を見ていると、労働時間の制限について現場は必ずしも肯定的では無い。労働時間の減少は個人にとってみれば収入減に繋がり、企業にとってはコスト増に直結する。現場からすれば、国は大上段に規制をしておいて、その結果起きる問題は現場で解決しろと無責任だという。結局国は何もしてくれないと。
 しかし、これを聞いて私にはやや違和感があった。国に何を求めているのだろうか。補助金だろうか。現場で起きている問題を現場で解決するのは当たり前のことだし、規制によって問題が起きたかの様に聞こえるが、問題は前からあったのだ。
 国や会社など、自分以外のところに問題の原因を押し付けようとする論調が何かと多い気がするが、個人はどんな取り組みをしてきたのか。

 私が思うに、問題の根本はあらゆるものについて適正価格の社会的なコンセンサスと個々人の自信の無さだろう。これは何も運輸業界に限ったことでは無い。例えば賃金の適正価格がいくらなのかを考える時、日本の場合はその地域の最低賃金や、社員募集時の業界賃金相場を参照するのではないか。
 どちらの場合も、個人個人が自らの適正価格基準を持っているようには見えない。給与は会社が決めた規定に基づいて貰うものという感覚が根強くて、自らの能力に対して相応の対価が得られているのかという視点にはなりにくい。

 だからといって、自分の能力からしてこの会社の給与は安すぎるから転職すると言う人も少ないだろう。自分にとっての適正な給与にアップするためというのが転職理由の人は現状ではかなり限られている。今や賃金交渉のストライキはめっきり無くなったが、それがあった時でさえ、特定の企業とその従業員という対立構造だった。
 同じ業種であればどこでもこの賃金という基準がある国もある。しかもそれは国や企業から提示されたものではなく、労働者が肩を組んで戦うことで勝ち取った仕組みだ。自らの労働環境は自らで開拓するという視点が日本には少ない気がしてならない。

 決められたルールの中で生きることは、窮屈な反面で楽だ。文句さえ言っていれば良くて、ともすれば自分自身のことでさえ責任を取らなくて良い。国の仕組みや業務のやり方に不満があるのであれば、文句を言うのではなく変えるための手を打ったり自ら環境を変えたりするのが責任ある行動だと思うが、それはしない。
 変えることをしないのであれば文句を言っても始まらないのだ。変わらなければ変わらない。

 社会や行政の様な大きな仕組みは、何か大きな問題が起きて初めて変わる方向に目を向けるようになる。それすら有耶無耶にされがちだから、滅多なことでは変わらない。
 労働のあり方は時代によって違う。今では労働時間が無闇に長いのはブラックと言われる。ブラックでも結構、金が欲しいと言う人もいるだろうが、より短い時間でこれまでと同じかそれ以上の給与を得られるようにするにはどうすれば良いかを考えるのも人間らしい試みではないだろうか。

おわり


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