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その話にオチはありますか?

 あなたは言葉を使わずに考えることが出来るだろうか。あるいは、頭の中から言葉を排除することが出来るだろうか。
 言葉を使わずに考えることは出来ないかも知れないが、頭の中から言葉を排除することは日常的にやっているはずだ。

 例えば夢中で映画を観ている時。映画の中に入り込んだあなたは映画と完全に一体化して言葉とは無縁の世界に佇んでいることだろう。もちろん、出演者のセリフを聞いてはいるが、それに応えるでもなく、淡々と受容しているはずだ。つまり、そこにはあなたの中で生成される言葉は無い。

 それに対して、自らが何かを考える時は言葉を使わないわけにはいかない。言葉を使わずに考えられる人はなかなかいないだろう。しかし、言葉はしばしば、考えるためではなく感情を表現するだけのものである場合がある。自分が見聞きしたことや自らの心情を相手に知らせるために使われる。ともすると、考えることに使われるよりもこちらの方が多いのではないか。
 その時、言葉は何の論理も理屈も無く、ただただ思いつくままに発せられて連なって行く。

 言葉と理屈を費やして説明しあわなければ円滑な意思疎通が出来ないコミュニティであれば、論理的な喋り方が身につけられるのだろうが、日本人同士の場合はそれよりも、余計な説明が必要にならない様な関係性を築くことに多大な労力を払う気がする。一定の距離を置きながら意思疎通する事が苦手な印象だ。ことさらに親密さを重視するのはそうした理由なのだろうと思っている。

 言葉を使って考えたり意思疎通を図ろうとすると、論理的に正しいことは常に正しいと思い込みがちになる。論理が正しくとも、前提条件が異なれば結果も異なる。だから、その話は受け入れられないと言う人がいる。
 そもそも感情は論理とは相容れないから、感情から出た言葉を喋る人と、論理を積み上げて喋る人とでは会話が難しい。時として一人の人中でも感情なのか論理なのかわからなくなる。こうなると話しどころではない。

 武力を捨てて言葉で人を説得せざるを得なくなっても、根底を流れる文化や背景が違う人々が完全に合意することは難しい。だからこそ、話の参加者それぞれが妥協点を見出すことが大切なのだが、これがなかなか難しい。
 譲り合いとはまた違うけれど、日頃からどこかに落とし所を考えておく習慣をつけないといけない。けれどこれがまた、つい忘れてしまうのだ。

おわり

 

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