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コーヒーが美味しいなんて誰が言った

 小学校に上る前、たま〜に買ってもらえるコーヒー牛乳が大好きだった。いつも飲まされる味気ない牛乳と違って、甘くて香ばしいあの飲み物は他を寄せ付けない存在感を持っていた。特に、コーヒーはカフェインが入っているからコーヒー牛乳とはいえ子供は飲みすぎては駄目なのよ、などと母親に注意されれば、少しだけ大人の味が分かった様な、大人の仲間入りが出来たかの様な気になれたものだ。それが実際のコーヒーの味とは似ても似つかないものだと知るまでは。

 コーヒー牛乳のあの味は、カフェオレやカフェラテなどとは一線を画している。あくまで甘い牛乳なのであって、コーヒー風味にしているだけだ。やっぱり子供向けなのだ。
 あの時の大人の味への憧れが、実際のコーヒーを口にした時に打ち砕かれて、大人ってこんなにも苦いのかと打ちひしがれる間もなく、どう? と聞かれて、うん、おいしいと言ったのは紛れもなく負け惜しみだ。苦そうにした私の顔で大人たちにはお見通しだったかも知れないが、おいしいと言ってのけた私は心のなかで、これが大人のおいしい味なんだ、と唱え続けていた。

 それから何年も経ち、高校生になるとカフェイン制限は解禁され、我が家ではようやくコーヒーを飲むことが許された。紅茶好きな両親の中で私はすっかりコーヒー好きとなっていたが、実際のところその味あまり良く分かっていなかった。背伸びをしてブラックコーヒーを啜っていたものの、この苦味がいいんだと自分を納得させていた。

 コーヒーに限らず、子供の頃に苦手だった食べ物が食べられる様になるだけで、たいして美味しいと思っていないのにちょっと嬉しくなったのはなんだろうか。大人の味が分かると悦に入るのは、きっと大人の味を愉しむ大人のイメージがあるからだろう。苦みの効いた蕗の薹を絶品と呟いてしまうのは、食卓で舌鼓を打っていた両親の影響だろう。生ビールを口にしてぷはぁ~と満足げな顔をしてしまうのは、テレビコマーシャルの影響だろう。苦みの強いチョコレートをポリフェノールがなんちゃらと言いながらポリポリするのは、テレビの健康番組の影響だろう。
 こうして書くと大人の味=苦みになってしまっているが、これはきっと私が辛いものが苦手だからだろう。

 いまや美味しいもの情報はSNSやレビューで得る時代。誰がどれだけ評価していたかであなたの「おいしい」が支配される。本当はそれほど美味しいと思っていなくとも、みんなが美味しいと言っていて高評価なのに美味しいと思えない私がおかしいと思いこんでしまう。
 でも、きっとそれでいいのだ。美味しいかそうでないかはノリの問題なのだ。そもそも、それを誰とどんなシチュエーションで食べるかで味が変わる。
 だから私はわざわざ豆を挽いて、レシピに忠実にドリップして、う〜んこれはちょっと雑味がのってしまったななどと知った顔でコーヒーを淹れる。一連の所作があることで上質さが演出されるのは茶道と同じなのだ。

 こうして毎日、誰かに刷り込まれた美味しさを楽しんでいるのだが、コーヒーが美味しいなんて最初に言い出したのはいったい誰なんだと思いながらお替りのコーヒーを入れようとしている。

おわり

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