言葉くづし 9―犀川大橋
緊張すると喉が渇く。私は二本目の炭酸水を一気に飲み干して、ぷはあ〜!と息を吐いた。起きてから三時間で一リットルの消費。そろそろ胃がチャポチャポしてきそうだ。それでもトイレに行きたくならないのは、どこか神経が張り詰めているからだろう。
リビングでくつろぐお父さんが台所にやってきて、ミル付コーヒーメーカーのフィルタを交換する。こだわりの豆で淹れたコーヒーは、病院勤務で忙しい彼の数少ない愉しみのひとつだ。緊張のあまり大汗をかく私に、お父さんは心配そうな口調で言った。
「冬花、顔が真っ赤だぞ。熱でもあるのか?」
「いや、大丈夫。体調は悪くないよ」
当たり障りのない返答をして、これ以上詮索されないよう、そそくさとスリッパからスニーカーに履き替えて玄関を出る。お父さんはまだ質問したそうな表情をしていたけれど、私は走って最寄りのバス停を目指した。
午前十一時、犀川そばのショッピングモール。
友達と金沢の中心部で遊ぶのは初めてじゃないけれど、今回は勝手がちがうからドキドキする。夏の休日のため、都心に近づくにつれてバスに乗る人の数がみるみる増えていく。窓の外を眺めると、青空の下を刷毛で擦ったような雲が浮かんでいる。
建物、光、人。車、車、建物、車、人。
バスは後方まで寿司詰め状態だ。肩を縮めて丸くなっていたところで、強引に高校生のカップルが隣に座り込んできた。呼吸すら困難な狭さのなか、彼らはお互いの髪の毛を触りあう。
気分わるい……。
私は両親のことを思い出して吐き気を催したが、「次は香林坊」のアナウンスに救われるように、他の乗客を押しのけてバスを降りた。
はあ…!
息が吸えるって、最高。
待ち合わせの店舗の前では美咲が手を振っていた。
「ごめん美咲! 待たせちゃったかな」
「ぜーんぜん! 暑いからお店のなかで涼んでたぜっ」
私たちは連れ立って自動ドアをくぐった。高級ブランドのカバンやトップスがゴージャスに展示されたブースは、そこだけ「お金もち」的な匂いがムンムンしている。肩身の狭い思いがする私にくらべて、美咲はへっちゃらな顔で「このブラウスかわいいっ!」とあれこれ物色しはじめる。
そういえば、彼女はいつにも増して気合の入った服装をしている。鎖骨を露わにしたスクエアネックのワンピースに、肩が少しだけ透けてみえる白のアウター。お人形みたいなミニスカートと、肩から提げた星型のポーチが可愛く揺れている。セットに何時間かけたんだろうと思わせるほどチャーミングにカールした黒髪が、彼女の女子力をますます高めていた。
「ねえ、霧島さんってどんな子?」
ピカピカに磨き上げられた広い廊下を歩きながら、美咲が言った。
彼女の大きな瞳は人を虜にする。夏炉とは別の意味で魔力を秘めた瞳だ。ついでに、私に話しかける絶妙なタイミングで、さり気なく腕を組んでくるあたり、相当のやり手だと思う。
美咲の人肌のぬくもりに、私はドギマギしながら答えた。
「ええと、わりと見た目は可愛いよ。コーデとか小物とかこだわりが強そう。髪はお下げで、身長は私より頭ひとつ分低いくらいかな」
ふーん、と美咲は真顔で前を見ている。
「私と勝負したら、どっちが上?」
「上……と申しますと?」
「バカね、決まってるじゃない。どっちがモテるかって話よ」
そんなこと聞かれても分からない。夏炉の恋愛事情なんて聞いたことがないし、美咲と好きな人の話で盛り上がった記憶はない。そもそも、どうしてこんな質問をするのだろう。はぐらかそうと視線を逸らしてみたが、美咲はぐいっと身体を引き寄せてしつこく尋ねてくる。観念した私はテキトーに、
「仲村美咲サマです」
と答えた、その刹那。
「なんですって〜〜〜っ!?」
私たちの前方五メートルに、見慣れた人影が仁王立ちで構えている。
「冬花! あんたいつからその女に乗り換えたの!?」
「夏炉……」
やはり、私の人生におけるタイミングとやらは、毎度最悪だと決まっているらしい。
「だれ? もしかして、この変人が霧島さん?」
あ〜あ。美咲、完全に引いちゃってるよ。夏炉がせっかくの可愛いポシェットをブンブン振り回して威嚇してるんだから無理もないけど。
私がこっくり頷くと、夏炉の深い眉間がいっそう深くなった。
「まさか冬花、その女に私の本名を教えたのね? 本人に一言の断りもなく! なんてことなの、この世界では真の名を知られては魔法使いに支配されてしまうのに……!」
こいつ、ファンタジー映画の見すぎだろ!
私の脳裏に、二頭のドラゴンが天空で戦っているシーンがあざやかに蘇る。
突っ込みたいことは山ほどあったが、それより先に美咲が一歩前に進み出た。
「ふーん。冬花の真剣なお願いだって言うから来てみたけど。そこの変人、私が冬花を独り占めするのが気に入らないみたいね。甘く見ないで、私と冬花は一年からの付き合いなんだから」
夏炉のほうも怯まない。
「それがどうしたっていうの? 私と冬花は前世から運命の糸で結ばれた正統な間柄よ。遺伝子レベルでお互いがお互いの存在を求めあってるの。この歴とした立場の違いがわかって?」
「スト〜ップ、スト〜ップ!」
なんでこうなるんだ!
特に夏炉だ。「遺伝子レベルでお互いがお互いの存在を」……って、正直キモいんですけど!?
慌ててふたりの喧嘩に割って入ったけど、すでに後の祭り。
「冬花は黙ってなさい!」
ふたりに断固として制止される始末。
ああ、神様。
私の立場はどこですか……?
よく分からない展開だけど、いずれにしろこのまま喧嘩させておくのは良くない。というのも、今回の計画の遂行には、美咲の協力がどうしても必要だからだ。
私は無理やりふたりの手をとって、約束のファミレスに連行していく。その間も絶えず口論が続いていたが、気にしないことにした。
空調の効いた店内で座席を確保し、美咲の好きなチョコレートムースと夏炉お気に入りのナタデココを奢ってあげて、私が小遣いを奮発してピッツァ・マルゲリータを注文したところで、ようやく腰を据えて話ができるようになった。
サヨナラ、私の尊いマニーたち。
「そんで要するに、この変人を文化祭に参加できるように私が取り計らえってこと?」
美咲が本日二個目のムースをぱくつきながら言った。喋りながらスプーンを口に運ぶ速度は全く衰えない。
「ふんだ! なにが悲しくて、この高飛車女の手を借りなきゃいけないわけ? 人生最大の汚点よ。冬花、もういいわ。私は降りるっ」
夏炉は激しい台詞こそ吐いているが、実際はカップの底にくっついたナタデココをストローで必死に拾ってるので全く格好がつかない。
「まあまあ。ふたりとも心を鎮めて……」
私は財布がすっからかんになった現実に涙を流しつつ、宥めるように語った。
学校を休みがちな夏炉だが、本心では楽しい高校生活を送りたいと思っている。だからまず、目前に迫った高校の文化祭にうまく参加できないかを考えてみることにした。
高校の文化祭は奇跡が起きる。
さながら都市伝説みたく言われていることが、案外的を射ていると私は思っていた。
ふだんの生活とちがう活動。ちがう雰囲気。
この波に乗ることができれば、夏炉もクラスメイトと自然に打ち解けられるのではないか。
しかし、心無い生徒たちが「文化祭だから登校したのか」となじってくる可能性もある。だから、誰の目から見てもわかるような「功績」を事実上つくってしまえばどうだろう。私はそう考えた。
幸いに、冬兄に相談したところ、なかなかの妙案を考え出してくれた。
「冬花のいう『功績』とやらが、閉会式の動画制作なのね」
実行委員をしているだけあって、美咲の理解は早かった。反対に、文化祭に参加経験のない夏炉はキョトンとしている。
閉会式の見せ場として、文化祭のフィナーレを飾る数分の動画が全校生徒の前で放映される。この動画には、文化祭の準備期間と当日をふくめた生徒・教員・地域ボランティアの頑張りがあざやかに活写されることで有名で、毎年これを楽しみにしている参加者も多い。
しかし、高い人気とは裏腹に作業コストや責任の重さに協力を渋るひとが多いのもまた事実で、実行委員の美咲から動画制作の人手が足りないとよく聞かされていた。これを思い出した冬兄が、夏炉に協力してもらってはと提案したのである。
「ぜったいにイヤ! ただの面倒事を押し付けてるだけじゃないの!」
激しく唾を飛ばす夏炉に、あくまで冷静に返答する。
「案外、悪い話ではないの。クラスの出し物に混ぜてもらうのが理想だけど、実際は夏炉のことを快く思わない連中もいるんでしょ? 無理にそんなひとに協調するのはしんどいわ。動画なら、クラスからはすこし距離を保ちつつ、みんなに貢献できる仕事だと思うの」
やはり不満気に髪の毛をいじっている夏炉。それまで食べることに執心していた美咲がおもむろに口を開けた。
「たしかに、動画のためには全校を回って準備しているところを撮らなくちゃいけない。すごく大変だけど、撮影の許可とかインタビューとかもやるから自然と担当者の知名度は上がるわね。かくいう私も、去年の文化祭で動画を任されてイヤだったけど、お陰で人脈が果てしなく広がったし」
この言葉は誇張ではない。もし彼女が一言声をかければ、我さきにと彼女の信奉者(男子も女子もふくめ)が群がってくるほどの人気者が、仲村美咲という人物である。
「そうは言ってもねえ。私は根っからのコミュ障だしぃ。生徒会の許可もいるしぃ。一部の人間には留年のことバレちゃってるしぃ」
決断しかねている夏炉に、無理もないかと諦めかけたそのとき、ふいにファミレスの自動ドアが開いた。
「話は聞いている。俺も協力するぜ」
まっすぐ私たちのテーブルに歩み寄る男の陰。
どくん、どくん。
どくん、どくん。
こういう手筈になるのは彼と予め打ち合わせておいたことなのに、どうしてか心臓が早鐘を打つ。
「あなた……たしか」
夏炉も驚きを隠せないようだ。
「久しぶりだな、霧島」
それは、徳田冬仁――私の片割れ、双子の兄の登場だった。
(つづく)
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