言葉くづし 18―鼠多聞橋
八月二十九日の朝は、いつものようにやってきた。
新聞配達のバイクが家の前を通る音。町会長さんと愛犬の散歩。一人暮らしのお爺さんが咳をしながらゴミを出しにいく音。
すっかり目が冴えて眠れなかった私は、目覚まし時計が鳴る一分前にアラームを解除して布団の上で仰向けになった。瞳をつぶると一階でお義母さんが台所を往来する気配がした。お父さんは病院の夜勤だから今日はいない。冬兄はまだ起きてこないだろう。
文化祭は昨日が初日。そして、二日目の今日が最終日。
早朝にも関わらず私の身体は軽かった。手早く文化祭のクラスTシャツに着替え、それをすっぽり覆うようにパーカーを羽織る。ちょっと暑いけれど風邪の病み上がりだと言っておけば何とかごまかせるだろう。
お義母さんには朝食は後で食べると伝え、私は息を潜めて彼女が仕事に向かう時間を待ち続けた。ようやくそのときが来た。彼女は出かけ際、
「今日も大人しく寝てなさい」
と捨て台詞を残して玄関の扉を閉めた。
私はパーカーを脱いで部屋の隅に放り投げた。美咲たちが頑張ってデザインした二○四ホームのクラスTシャツ。これを着るべきタイミングは一生に一度、文化祭のときだけだ。お義母さんがなんと言おうと、私は自分のやるべきことをやってやる。
見計らったように冬兄が私の部屋をノックした。彼は私の服装を見てすぐさま苦笑する。
「昨日は冬花が大人しく休んだからお義母さん油断してるみたいだ。お前、やっぱ文化祭に出る気まんまんじゃんか」
「当たり前よ。昨日の欠席はお義母さんに対するカムフラージュ。あーあ、丸一日損しちゃった」
「反抗期だな」
「褒め言葉だと受け取っとく」
冬兄は返事をする代わりに小さな紙袋を差し出した。
「これ、お義母さんの部屋の抽斗から拝借しておいたぜ。あの子にもっていってあげな」
紙袋を受け取って中身を開くと、そこには私が買ったイヤリングがツーセット入っていた。
「冬兄……。今日ほどあなたを兄にもって良かったと思った日はないわ」
文化祭に赴く冬兄を玄関まで見送った後、私はひとまず冷水をコップ一杯飲み干して気持ちを落ち着かせた。容積の大きなショルダーバッグに財布とハンカチ、ペットボトルのお茶、そしてイヤリングの入った紙袋などを詰めて肩に提げる。
そして、忘れてはいけないものが二つ。
ひとつめは水中から引き上げた聡子さんの手紙。こちらは小瓶に封したままの姿で保管してある。
そしてふたつめは、文化祭初日を休んでまで家中を探索し、ようやく見つけた証拠物件。
鏡の前でポニーテールの形を整えると、私はわが家を出発した。
歩きながら私の口をついて出た言葉は、夏炉でも聡子さんのことでもなかった。
「お生母さん……」
バスに揺られて目的地に向かう間も、私は聡子さんの手紙を何度も読み返した。
相変わらず丁寧で優しい書きぶりに、かえって胸が深く抉られる想いがする。私は一ミリたりとも聡子さんや夏炉を責めてなどいなかった。
バスの窓の外は優しく晴れていた。夏の時間が終わりを告げるような寂しい青色が、雲の狭間を染め上げている。
バスは頻繁に赤信号に捕まりながら、のろのろと街の中心街を進んでいった。香林坊の交差点を左折し、市役所を横目に見ながら街路樹の立ち並ぶ通りを縫うように走る。日曜は特に観光客やカップルの姿が多く見受けられる。早い時間帯から御苦労さまですと心のなかで念じながら、再び手紙の文面に目を落とした。
金沢城前のバス停で降りた私は、ガイドマップを見ながら石川橋の下をくぐり抜けた。金沢城は天守閣こそ焼けてしまったが、代わりに搦手の石川門が藩政時代の遺構を現代に伝えていた。ふだんは何気なく通過するだけの古い城跡が、今日ばかりはとても尊い存在のように感じられた。
近くのベンチで身を休めつつ、聡子さんからの手紙を読み耽った。この文章には私がずっと知りたかったことばかり書かれていた。聡子さんがお生母さんの過去を知っていた事実が、どうしようもなく私の心を震わせた。そして、早く聡子さんや夏炉に会って話がしたいと切に願った。
(つづく)
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