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映画『ペンタゴン・ペーパーズ』を見て20歳の若者が考えたこと

スティーブン・スピルバーグ監督作品『ペンタゴン・ペーパーズ』は、アメリカ憲法修正第一条に記された言論の自由をめぐる、史実に基づいた映画だ。

1971年、ニューヨーク・タイムズ紙はベトナム戦争とトンキン湾事件にかんする国家機密文章である「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」、通称「ペンタゴン・ペーパーズ」を記事に掲載した。

ニクソン大統領宛に書かれたこの報告書には、アメリカ政府がベトナム戦争に勝利する見立てがないまま戦争を続けていた、などの政府への信頼性を揺るがす衝撃的な内容が書かれていた。これを受け、時のニクソン大統領は国家の重大な情報漏洩であるとして、記事の差し止め訴訟を行った。

これはすなわち、言論・報道の自由をかけた政権側と新聞側との争いであった。

地方裁、高等裁を経て連邦最高裁判所にまでもつれこんだ裁判は、結果、新聞社側の勝利で幕を閉じた。報道の自由が認められたのである。

さて、映画を見て真に考えされられたのは、報道の自由vs政府の言論統制、という構図のおぞましさよりも、むしろ作品終盤に登場した、次の印象的な台詞についてである。

“The Founding Fathers gave the free press the protection it must have to fulfill its essential role in our democracy. The press was to serve the governed, not the governors.”
(建国の父は報道の自由に保護を与えた。民主主義に欠かせない役割を成し遂げるためになくてはならないものである。報道は権力者に仕えるのではない、国民に仕えるのだ)

ブラック判事の見解をあらわしたこの台詞は、「報道とはなにか」について考えるとき、とても重要な示唆を与えてくれる。作中では報道の自由を勝ち取った際の、希望に満ち溢れる台詞として描かれていたが、現代の日本人ははたして、この言葉に手放しで感動していて良いのだろうか。ほんとうに? 
『ペンタゴン・ペーパーズ』では真実を求める国民の声(じっさい作中でも激しいデモ、抗議運動の様子が描かれていた)が強くあったからこそ、報道は権力者の欺瞞を暴き、国民に真実をもたらす武器となった。ところが日本ではどうだ。報道が仕えるべき国民たちが、政治や真実には興味を持たず、芸能人のゴシップやら身の回りのハラスメント問題などで記事を食いつぶし、満足している。けっして、ゴシップやハラスメント問題が重要でないとはいわない。それらもまた、おおきな関心をもって報じられるべきである。

しかし報道元来の役割が権力の不正に対抗する手段だったことを忘れ、誰もそうあることを望まなくなれば、報道は死ぬ。新聞はともあれ、読者の興味を引くよう派手に飾られた週刊誌を見ていてそら恐ろしくなるのは、国民がゴシップをこそ望んでいるといやが上にも気づかされるからだ。

報道の自由は守るべきだと思いますか、と訊けば、誰しもが頷くに違いない。しかし関心のありよう次第で、名ばかりの報道の自由は簡単に価値を失う。今こそ、日本国民のリテラシーが試されている。