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エンパシーというまことしやかに囁かれる言葉について

いま、ある教育者の「相手の立場を理解しようと努力し、相手のことを想像する力」であるエンパシーが重要という趣旨のツイートが流れてきた。

シンパシーとエンパシーの違いについては
シンパシー=相手に対する同情、共感
エンパシー=相手を理解しようとする力、感情移入

というふうにまとめられたりする。

「アザーネス(他者性)との向き合いと理解、エンパシーこそが芸術表現の本質」(鴻巣友季子)というのは、私も確かに…と思う部分がある……ということを認めた上で、それでもなお私は、エンパシーが称揚される状況に対して、奥歯に物が詰まって取れないときのような苛立ちを覚えている。

河合雅司は『未来を見る力 人口減少に負けない思考法』の中で、「エンパシーを身に付け、相手を思いやること」で「日本の未来は大きく変わる」と威勢のいいことを書いている。エンパシーはいまや社会になくてはならない「潤滑油」だそうだが、逆に言えばその程度のものだという表明に聞こえる。つまり、鴻巣の言う「アザーネス(他者性)との向き合いと理解」というところに本懐があるのではなく、社会が摩擦なく潤滑に進んでいくことに貢献できればよいと。

ここにエンパシーの本音を見る。エンパシーというのは、社会における多数派にとって、そして為政者にとって、非常に都合がよいものであるらしいのだ。

これほどにシンパシーよりエンパシーの方が大事というのが常識化、マナー化すると、エンパシーなんて言うけど、そもそも「理解不可能性」あってのエンパシーですからね、あくまで「わからない」という「理解不可能性」の方が本丸ですから。エンパシーなんて言って他者に簡単に触れられると思わないでくださいね、わからないわけですから、わからないまま触れずにそこで立ち竦んでいてください……なんて言いたくなるが、これは一般的に言えば極めて感じの悪いことだ。

エンパシーとはつまり、アライ(=共感できないとしても理解しようと努める人たち)を増やすことである。アライを増やすことで、当事者の孤立を一時的に慰撫することができる可能性が大きくなる。確かにそうである。しかし、アライがどれだけ「理解」しても、当事者は当事者のまま孤立しているという当たり前の事実を、「理解」して仲間のつもりになっているアライたちはすぐに忘れてしまうのではないか、そんな懸念がある。

アライを増やして社会全体の心地よさが目指されることで、かえって個別の怒りや孤立が置いてけぼりになる。そういう方向性がはっきりしてきたようだ。孤立した人たちはその人なりの楽しみをちゃんと持っているから無論シンパシー(同情)なんて勘弁願いたいところだろうが、だからといって「エンパシーが重要」なんて言われると、いつまでもお前の話してるんだなと悪口を言いたくなる。

*2022年3月、及び2023年8月のツイートを再構成したもの




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