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25夜 なぜ,学年同年齢でなければいけないのか・・・

 文科省が毎年調査している30日以上登校せず「不登校」とされた小中学生が,2021年度,前年度より24・9%(4万8813人)増えて、過去最多の24万4940人だったという2022年10月の調査結果の公表から,もうすぐ1年になろうとしている.この時の調査では,「いじめ」の認知件数(約61万件)も暴力行為の発生件数(約6万6千件)と前年度よりも増加したという結果が公表された.
 「不登校」も「いじめ」も「暴力」も共通しているのは,要するに学校でうまくいっていない児童生徒が,かなりの数に上っているということだろう.このことは,学校にいくことがストレスになる,学校に行くとストレスがたまる,あるいは,ストレスをふやす場が学校になってしまっている,ということを示しているわけで,かつて「不登校」が「登校拒否」といわれていた頃に,登校を前提に対応することで「登校拒否」が増えてしまったという反省から,登校以外の対応を模索することが続けられ,「フリースクール」などが市民権を得るようになった.最近は,バーチャル空間に「仮想の学校」や「仮想の教室」を展開して「不登校」児童生徒が学ぶことのできる「空間」を提供するNPOや自治体が出現しつつある.
 「不登校」児童生徒にとって,学校以外に学びの場を求めることができるという状況はとても良い事で,彼らのその後のキャリアプランニングを考えるためには大切な場であることはいうまでもない.
 しかし,筆者がこういった児童生徒とかかわった頃から,ずっと「不登校」児童生徒数が増加しつづけているという点で,「学校」以外の場の提供という手段は,「学校」にとっての根本解決のための手段にはなっていないということを明確に示している.断っておくが,「学校」以外に学ぶことができる場を否定しているわけではなく,むしろもっと多様な場が出現すべきだと筆者は考えている.なぜなら,「学校」や「教育委員会」「文科省」は,「不登校」問題について「これだ!」といえる解決方法を提示できていないという事実があるからである.平成30年6月、第3期教育振興基本計画が閣議決定され、政府は、全ての都道府県に少なくとも一つは、夜間中学が設置されるよう教育機会の確保等に関する施策の総合的な推進を明記したことは,一歩進んだ手段といえなくもない.
 私たちの学校では,よほどの事情がない限り満6歳から満15歳までを義務教育就業年齢として,保護者がその子弟に小中学校に通学する責任を負い,子弟は学校に通うことになる.しかし,「不登校」などで仮に1日も通学していなくとも,満15歳になれば義務教育を修了して中学校を卒業するのである.もちろん,法的に原級留置の措置は可能だが,おそらく学校が原級留置を働きかけることはないし,保護者がそれを希望することも,少なくとも筆者は聞いたことがない.この国は,学を修めているかどうかよりも,学齢の方を重要視するのである.問題はここにある.
 たとえ,九九ができなくても,漢字がほとんど書けなくても義務教育は修了できるのがこの国の義務教育の仕組みなのだ.だから,高等学校に入学してからアルファベットを学習する機会を必要とする学校や,九九や二けたの掛け算割り算の補習をしなければならない学校が存在することになる.大学に入ってから作文の補習を受けるなどという事態も発生するわけだ.年齢や学齢に対するこだわりは,義務教育段階だけでなく,就職段階でも新卒やら第2新卒などという形で続き,定年の段階でも65歳になると正規就職への壁が出現するといった,年齢に関する暗黙のルールともいえるような社会的なこだわりがいつまでも続くのである.だから,満15歳での義務教育修了は必要条件になるといっていい.
 「不登校」になった児童生徒が,休んでいるうちに勉強がどんどんわからなくなって,余計に学校に行きづらくなってしまった.という話はよくあることで,「不登校」が長期化してしまう要因のひとつにもなっている.
 なぜ,このように年齢にこだわる社会になっているのか.長らくこの国では「同質」であることがよりよいとされてきて,現在でもその状況はあまり変わっていないだろう.少し前の運動会の徒競走で,手をつないでゴールすることが良いとされたり,ケガの問題が取りざたされた組体操を賛美したりと,個性よりも協調を重んじる社会的なバイアスは依然として続いている.もはや国民性なのではないかと筆者は考えている.「ギフテッド」とよばれる児童生徒に関しても,協調が難しい児童生徒を,「だから仕方ないよね」として無理やり「同質」の枠に収めようとする手段にしか,筆者には思えない.大切なのは,「多様性」のなかに「同質」というタイミングがあってもよいということで,「同質」であることを前提とすべきではないということだろう.縮小する社会におけるこの国が,世界の中で存在感を示すためには,「多様性」を受け入れる必要があることは明らかである.その一歩として,学齢や年齢にこだわらない社会を構築することをみんなで考えるべき時期にきているのではないだろうか.手始めに生産年齢人口という言葉をやめてしまうことと,高校入試の受検年齢を6歳から20歳まで幅を広げることから始めてはいかがだろう.
 

 

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