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秀才である僕が、この2年間意識したこと

こんにちは、とび少納言です。
今日は、秀才である私、とび少納言がこの2年間めちゃくちゃ意識したことがあって、それがすごく良かったので発表したいと思います。

まず、前提として僕は自分のことを秀才だと思っています。
自分で自分のことを「秀才」と評することに抵抗が無いかと言えば嘘になりますが、僕が認識する限りでは周りからの僕の評価は「秀才」であったと思います。
それは、「天才」でも「凡人」でも無かったはずです。

僕は秀才です、という謎の宣言は、これから書き連ねることに大いに関係あります。
何の関係もなく、「僕は秀才だ!」と叫んだわけでは無いので、ご安心を。

僕は、世間で高偏差値と言われる大学を卒業したくらいには勉強ができましたし、また、勉強が好きでもありました。
大学時代から誰に言われたわけでもないのに、様々な分野の本を読んでいて、社会人になった今でも仕事に1ミリも関係のない宇宙の本を読んだりしています。

今思えば、その結果、気が付かぬうちに「すべてのものには答えがある」という考え方になっていたようです。

本に書いてあったことは堂々と語れるのですが、まだ勉強したことがない分野のことは何も語れませんでした。また、語る必要もないと思っていました。だって、勉強不足だし、専門家でも無いのだから。

政治の問題に意見する有名人に対しても、内心は「専門家でも無いし、何も分かってないくせに余計なことを言って」と思っていました。

世間の秀才の皆さん、このような経験は無いでしょうか?
この勉強好きな故に、過剰に「正解」を求めてしまう現象は、世間から「秀才」と評されるような、そこそこ勉強ができて、そこそこ勉強が好きな人間にありがちだと感じています。

勉強好きの秀才くんである僕は、散歩をしながら、ある人の音声配信を聞くという習慣が出来ていました。
その人は、しきりに「答えがない問題」とか、「自分のアタマで考えよう」とか、言っていました。

最初はワケが分からなかったのですが、次第に意味が分かってきました。これまで本を読んで分かったような気になっていたコトには、別に答えも正解も無かったのです。

僕が読んでいたのは、その著者の意見でした。
それが業界の定説であろうと、多くの人に支持されている常識であろうと、その人の意見にしか過ぎないことに気がついたのです。

そして、それに気がついた時、自分にも意見を持つ権利があることにも同時に気が付きました。僕は、勉強してインプットする側の存在で、世にいる専門家のような人たちだけがアウトプットする側の人たちだと思っていました。
でも、別にそんな事は無かったようです。

このことに気がついたのが、2年前のこと。
その日から僕は、少しずつ自分の意見を持てるように、また、自分の意見を言えるように意識してきました。

仕事のミーティングでも、「自分はこう思います」と意見を表明しました。「これはしない方がいいと思います」「こっちの方がいいと思います」など、何か発言するときは、ちゃんと自分の意見を言うことを心掛けました。もちろん、毎回ではないですが。

さらに、誰にも言わないまでも、自分の意見を考える習慣も付きました。
これまでは本を読んだら、「へぇ〜、そうなんだ」と鵜呑みにしていた節がありましたが、今は「自分の意見はどうだろう?」「この人と異なる部分は無いかな?」などと考えるようになりました。

そのおかげで、より一層勉強が楽しくなりました。勉強とは、こういうことだったのかと気が付きました。誰かが、「読書は、著者との対話だ」と言っていた気がしますが、その意味が初めて腹落ちしました。

高校生の頃、人よりも早く正確に答えに辿り着ければ褒められたので、そのノリでこれまで生きてきましたが、それは学校の中だけだったことにようやくですが、気づけて良かったと感じています。

もし、僕のような勉強好きの秀才くんがいれば、少しは参考になるのではないかなぁと思います。

では、とび少納言でした。

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