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愚かさの熱量:恋は雨上がりのように

数年前の自分を振り返ると、何故あんなことをしたのだろうと疑問に思う行動が多々あります。
非生産的、非合理的、少し考えれば恥を掻くのが自明の理。
そういう行動をそういう類いのものだと知りながら行っていました。
無知からではなく、知ってなお行う愚かな青春の時期が私にはありました。

私が高校の時に所属していたサッカー部では、同期の間でのみですが、
「愛のボレーシュート選手権」という謎の風習がありました。
それは週末の練習後に行われる行事。
その時に好きな人、気になっている人の名前を絶叫しながらボレーシュートをゴールに叩き込むという何とも頭の悪い遊びでした。

上手くゴールに叩き込めれば恋が叶う。
シュートを吹かしたり、ぼてぼての当たりになってしまうと「愛が足りない」と言われる。
想い人がたとえ部活の練習で登校していても、その行事が始まると四の五の言わずゴール前で愛を叫ぶのです。

僕たちは知っていました。
こんなことをしても恋人はできない。
その時は楽しいが、もしも他人にこんな事を見られたらと予想すれば、ずっとデメリットの方が大きい。
知ってなお私達は思い想いの愛を叫び、ボールと右足に(時には左足に)己の恋を委ねるのでした。

二十歳も過ぎると、いつの間にかそういうバカげた風習が無くなりました。
恋をする相手を選ぶときは「理想的」よりも「現実的」な居心地の良さを勘定に入れるようになりましたし、
行動を計画する道のりは、いつもゴールに直結するものを選択するように心がけますし、
夢は世界征服ですなんて遊びでも言わなくなりました。

昨年末に23歳になった私ですが、愚かである方がずっと楽しいと知っています。
それでもそういう楽しさを捨ててでも「大人らしい」態度を選ぶようになりました。
賢くなろうが、大金を得ようが、それらに人生の本質的な意味はないと様々な哲学理論で論破されようが、
それでもそういう行為に意味を持たせようとする人間になりました。

果たして私は
自身の愚かを知りながらも、好んで無意味を追求しようとする少年から
社会の儚さを知ってなお、好まずとも意味ありげな物に向かう大人になろうとしているのです。

恋は雨上がりのように

そういう学生時代を過ごしてきたからでしょうか。
私が青春系の作品を読んだり視聴する際には「いかに青春の愚かさを描くか」というポイントについつい目が行ってしまいます。

最近視聴した作品で言えば、眉月じゅん先生原作の漫画をアニメ化した
「恋は雨上がりのように」なんかが非常にこのポイントを上手くとらえているなと思いました。
この作品は小松菜奈さんと大泉洋さんをキャストに迎えて実写映画化もされていましたね。
余談ですが、私がタイへ旅行に行った時にバンコクの映画館でもこの作品が上映されていて、かなりびっくりしました(笑)。

あらすじとしては、陸上部のホープでありながら怪我で挫折をした女子高生の橘あきらがバイト先の冴えない中年店長、近藤正己に恋をするという作品。
女子高生と中年オヤジという禁断の組み合わせをノスタルジックな筆致で描いた本作にはもうキュンキュンしっぱなしでした。
何よりも主人公のあきらの行動が可愛くて仕方なくて・・・。

そんな作品なわけですが、あきらは何もこの恋が叶うものであると思い、挑んでいるわけでは決してないのでしょう。
もちろん、彼女は不器用で優しい店長が好きで、彼の新しい一面を知れることが嬉しくて、だからこそ事あるごとに店長に近づく方法を模索します。
それでも可笑しな恋をしていると自分でも気づいているから、誰にも想い人を悟られないように努めるわけですし、
その希望への距離のあまりの遠さに絶句して涙を流すわけです。

対して店長の近藤は離婚をしているために妻こそいないものの、あきらとはある程度の距離感を保とうと努めます。
彼もきっと知っていたでしょう。
彼女程自分に真摯に向き合ってくれる女性は冴えない中年の彼の前に今後現れることなどまずないことも、
その気になればたとえ両想いになったとしても、彼女がある程度の歳になるまでは周りに対して交際を隠す術も。
それでも彼は、真っ直ぐに見つめる彼女の視線に好意的な自分の存在を知りながら、敢えて彼女から離れようとするのです。

そんな儚く愚かな恋ですが、あきらと近藤の距離を微力ながらも近づけた一幕がありました。
それは風邪を引いた近藤のもとに土砂降りの嵐の中あきらがお見舞いに行くシーン。
気持ちが先走り、危険を顧みず行ったあきらの行動。
それでも近藤は彼女の愛に答える事ができない。
ついに泣き出すあきらに対して、近藤はこのような言葉をかけます。

若さっていうのは時に乱暴で狂暴なものなんだ。
それでも、その時に感じた感情というのは、いずれかけがえのない財産になる。
今はわからなくても。

あきらはその若さ故に叶う事はない、別の言い方をすれば叶ってはいけない恋の道を選びました。
それは暴力と狂気に満ちた道です。
彼女はその道で傷つく事を、敢えて愚かになることで選び得た。
彼女と彼の恋愛観を決定的に隔てるのは、その愚かさなのです。

敢えて愚かになれることこそ、若さの特権ではないでしょうか?
歳をとると守るべき人を、地位を、名誉を得すぎる。
だから私達は青春時代にうんと馬鹿になる。

世間の目から鈍感になって、決して非生産的、非合理的、恥を掻くのが自明の理であってもやりたい事に挑戦する。
茨の道を血と涙に濡れようが、這ってでも前進する。
青春時代の愚かさには、そういう類いの熱量がある。

近代以降の社会は生産的で合理的な物を求めていますが、私はこのように思います。
愚かでも、馬鹿でも、阿呆でも、それが前へ進もうとする力があるのなら良いではないかと。
どれだけ鈍感になっても世間の目は痛いし、失恋は辛いし、友情は時に脆いし。
だからこそ青春を生きるのは辛いけど、同時に熱いのです。
その愚かさの熱量はどんなエネルギーよりも人を前進させるのです。

今はわからない、かけがえのない財産とは、ありきたりな言葉ですが、愚かさが生んだ軌跡なのでしょう。
過酷な道が思い描いたゴールに繋がっていなくても、進んできた道は本物です。

どうか今中学高校生の人には恥を忍ばず愚かになってほしい。
これから次々と訪れるであろう障壁を愚かさの熱量で乗り越えて欲しい。
だから私は、誰に求められたわけでもない記事でも、愚かさの熱量で書こうとするのかも知れません。

というわけで今回は青春と「恋は雨上がりのように」についての記事でした。
アニメはNetflixでも配信されているので、気になった方はぜひ。

それではまた今度・・・。

今回紹介した作品



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