透明

家の中で生きることは、家族との頭脳戦だ。これは、私だけでなく妹や母、時に父もそうだ。今なら。

妹の考えていることはよく分からないが、とにかくすぐに新しいものがほしくなるのは確かだ。洋服、ゲーム、ぬいぐるみ……最近であれば化粧品もそこに追加されている。まだ妹が幼かった頃、母は可能な限り買い与えていた。姉の私は「不公平だ」と思うより早く「心配」した。母の頭も、家のおカネも。のちのち母の言い分を聞けば、まあ、もっともである。万引きや窃盗などの犯罪をしてしまうのを防ぐためだという。母は、母として妹に合わせた正しい教育をしていたのだ。

母の教育の甲斐あり、妹は会話を練習しながら学校にそこそこ通える程度に成長した。その中で、そろそろおカネの使い方というのを教えるべきだろうと両親は考えた。当たり前のことである。それからは「〜〜がほしい(が、おカネが足りない)妹」「それに対し、うまい具合におカネの貯め方ややりくりの仕方を教え、実際に金銭を渡したり必要に応じて管理する父」「この2人の意見がぶつかり険悪になった際、間を取り持つ母」との頭脳戦である。

これを外から見ていると「外で週数回働くだけで気持ちよく万単位でカネが手に入る「健常者」ってやつは最高だな♪♪」と思う。3人とも日々、やり取りなどが進化するので本当に尊敬する。あえて文句をつけるとしたら「2人の仲介に疲弊した母の愚痴を聞く私」という不定期キャスティングをしないでほしいということくらいだ。


信用と真実は必ずしも同じところにあるとは限らない。幼少期のあの1件で、私の信頼は随分低いらしく、またなぜかそれが全く回復しないと気づくのに時間はかからなかった。繰り返し聞かされる中で反省するどころか「やはり母がどれだけ喚いても、龍城を続けるべきだったかもしれない」という可能性を考えるようになった。例え龍城が成功したとしても、その先まで見据えると「無意味なことでしかない」ともすぐに気づいたのだが。

頭の中で考えていることを言葉に直すのが苦手である。時間もかかるし、時間をかけて伝えても、思った通りに伝わらないことが多々ある。何も感じていないわけではないのだが、どうしても言葉に直せない。国語の授業は苦手だった。この問題を解決できる可能性がある特訓法をひとつだけ思いついたことがあるが、過程の中で逆に「頭がおかしいぞ」と思われる可能性が高かったので、実践に移したことはない。……ということを言葉にすることに、ようやく成功した。あの子がほしいという漫画の着想が5年以上前のことであるという話でお察しいただけると幸い。

妹に、会話を教えたのは母だ。妹と父の仲介に入るのも母だ。父の理解できない説明書を読み、説明するのも母だ。言葉を持たない弟の相手をするのも、父と弟の仲介に入るのも、母なのだ。病院の診察で「真実」を先生に伝えるのも母の「役割」なのだ。しかし、窓の外、その先はそうとは限らない。

私はこれだけ文字が書けても、妹に教育したり、父を説得する言葉を持たない。この文章は、文章が読める人間のための文章だ。文章が読めない人間は、文章を読もうとしないのである。おカネを稼ぐ父より、母がいなくなることの方が生き地獄であることは間違いないだろう。それに母は女で、暴力と、圧を持っているのだから。


なんだかんだ14時には目を覚ましている。しかし、そこから起きて、1階に行って、飯を食うための交渉がめんどくさすぎて、どうしても布団を出るのが16時以降になってしまう。今日もそのようにしてツイッターをしながら耳をすましていると、どうも弟と両親は出かけるようだった。鍵をかける音がしてからもしばらく耳をすませていたが、家の中は私ひとりになったようだった。妹も家にいないようだ。と分かった途端、シャキッと布団から出て、着替えをし、布団を畳むことができた。

iPhoneと脱いだパジャマを持って1階に降りると、やはり誰もおらず、静かだった。食卓には手紙とクッキーが置いてあり、妹に宛てられたものだとすぐにわかった。一応内容を確認すると、今日は弟の診察で病院に向かったようだった。手紙の情報から、制限時間は30分といったところだろうか、と逆算し、行動を始めた。


……とりあえず、脱いだパジャマを洗濯機に放り込む。台所の換気扇を回し、適当にご飯を作ることにした。袋麺を茹でるために鍋でお湯を沸かす。その間に卵とベーコンを見つけたので、適当に割ったり切ったりする。卵はクッキーを作るのに使ったのか、パックの最後ひとつだ。予備は冷蔵庫の奥にあると確認できたので、空のパックをすてるに留める。使いかけのベーコンはそのまま使い切り、ベーコンが入っていたプラスチックはゴミ箱に片付けず、いつものように流しに置いておく。作りつつ使い終わった食器を洗い、布巾で拭いて、元の場所へ戻す。

換気扇を回したまま食事を取る。食べ終わった食器もすぐに洗い、元に戻す。フライパンや鍋も同様に片付ける。元あった形に直していく。ジュースを1杯飲み、そのコップだけは片付けず流しの近くに置いておく。まだ時間に余裕があったので、部屋に戻り溜まっていた紙ゴミをまとめ、外に出す。外に出しておけば、ゴミ出しの朝に父がまとめて捨ててくれるはずだ。ついでに歯を磨き、顔を洗う。20分少々が経過し、やるべきことはやったので、ここで換気扇を止め、自室へ戻った。

……と書き起こし、ガスを閉め忘れたかもしれないと気づいたが、些細なことだ。これは、両親が帰宅後、この状態で「私が起きて、食事を取ったのか」気付くのか、という実験を兼ねた行動である。今回は卵やベーコンを使ったし、ガスを閉め忘れているとしたらバレてしまっても仕方がないだろう。というか、むしろバレない方が問題なのである。

言葉を持たない以上、家での立場が強いとは言い難い。また圧力も、暴力も持ち合わせていないので、正面からぶつかれば負けるに決まっているのだ。だからこそ、頭を使わなければならない。

やたら頭脳戦のレベルが高いこの家、行動による異変はあまりに微弱だとスルーされがちである。それこそ、両親に直接影響が及ばない行動であれば。というわけで、文章と同時進行で行動を起こすのは、本当はあまりよくない。だから私は、メンヘラになりきれなかったのである。


私は、聴力がとても良い。「音を拾う」という点においては、普通の人よりずっと優れていると断言できる。また、繰り返し目で見たものを覚えるということも得意である。私の耳と目は一言で説明できない複雑さを持っているが、このような耳と目を組み合わせて使うと、楽譜が全く読めなくてもピアノを弾けるようになる。母が弾くピアノの曲を聴き、指の動きを覚えて真似をすることができた。同じ方法で、クラスメイトがピアノを弾く様子を見て覚えてきて、家で弾くというのは娯楽のひとつとしてよくやっていた。

弟はあまり、体調がよくないんじゃないかと考えている。確認する手段も、確認したのち誰かに伝える手段も持ち合わせていないので、これは想像の域を出ない。

たしか、妹も弟も体調が悪かったというある夜のことだ。現在ほどではないが、そこそこ夜型の生活をしていた私は、水分補給のためにリビングへ降りた。2階のトイレには明かりがついていて、誰かが入っていることは音でわかった。音でわかった、とはいうが水の音や、紙を切る音がしていたわけではない。ずいぶん前に扉を開ける音がしたのに、と水分を取り、2階へ戻る。わずかな隙間からトイレを覗くと、誰かが倒れている、……ような気がした。

父や母ではない、子供だ。弟か、妹だ。弟であれば、私が助けるのは不可能だ。私には顔色や状態を分析したり、それを踏まえて判断する知識はない。また体力の差があるので運ぶのも不可能だ。体力という点では妹もそうだが、そもそも妹であれば絶対に手を貸したくない。それに、あまり長い間倒れていたら、さすがに両親は気付くだろう。私はいつだって、世界の終わりを夢見ている。どうせ私の言葉は無力だし。

この後特に何事もなく生活は続いたのだが、つまり倒れていた人間は、自力で起き上がり、元の生活に戻ったということだ。妹であれば、今日までの日々の中であらためて「そういうことがあった」ということを耳にするはずだ。あれは、やはり弟だったのではないだろうか。それから、夜間耳をすましていると「なんとなく」としか言えないのだが、弟があまりよくないこと、そして両親もあまりよくないのだろうと分かる。


このような日記を書いているうちに妹、そして弟と両親が帰宅したようだ。夕飯を買いに行くからと、母が部屋へ来た。手に持つお皿に、クッキーが数枚乗っている。それを渡しながら、「あんた、最近ちょっと痩せたんじゃない?」と言われた。痩せている。目に見えて痩せている。食事の回数を減らすと、痩せるのだ。当たり前のことである。痩せることに対して心配されるのが面倒なので、今日のような実験を行った。実験はこれで、数え始めて2回目だ。

「ちゃんと食べなきゃダメだよ。夕飯は〜〜と〜〜でいい?」

今日は、食べた。かなりしっかりめ(当社比)に、食べた。それから3時間くらいしか経っていないので、正直その量だと多い。卵の殻に気づかなくても、私の腕の細さには敏感なのである。「大丈夫、ちゃんと食べてるよ。まだ体重もギリギリ40キロ台なんだから」と、多分意味はないだろうが、雑な報告を兼ねた返事をした。食べているのは本当だ。ここにきれいサッパリ書いたとおりだ。体重は順調に30キロ台に入っていたが。


「フォロワー心配しないで! 飯は食ってます」という報告をしたかったのだが、というか、した上で、そこそこ安心してもらって、生活ってやつをシェアして、ねぇ生活でしょ? きれい? ってやりたかった、のだが「大失敗」という感じですね。私は毎日、ずっとこんなことを考えながら生きているのだがどうやら他の人は、そうではないらしい。サピオセクシャルになるわけである。

日記を書くときはまず、ノートにシャーペンで下書きをする。私は右利きなので、右手でシャーペンを持ち、ノートに滑らせていく。大体、5〜6ページをひたすら文字で埋めていく。少し前まではさらに推敲をしたり、2〜3回分の日記をひとつにまとめ、あらためて下書きをしたりしたが、最近は1回で大体の形が決まる。そうして、おおかたまとまってからデジタルデータに起こす。

noteのエディタには自動保存機能が付いているので(!)メモ帳に書いてからコピーする、というやり方は取らず、いきなりエディタを使って打ち込んでいく。最近はiPhoneのブラウザから投稿しているが、見やすさを考える過程でパソコンから投稿していた時期もある。ひととおりデジタルデータに起こし、サッと確認をしてから公開する。ツイッターにリンクを貼る。本当はハッシュタグをつけた方がいいのだろうとわかっているが……この文章は、何?????(本当に何???)の答えが出ていないので、つけていない。読んでもらえるかなぁと考えながら、下書きをしたノートのページを切り離し、1枚ずつ破いていく。そうして、バラバラにした紙屑を袋にまとめておく。ここまでが記事を投稿するまでのルーティン。

それではさようなら、なくなったらなくなるだけよ。


2022/05/29 改題

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