家の中で書いた日記

あのとき、手首を切ろうとするべきではなかった。ずっとそう思っている。

学校も仕事もなく、1日のほとんどを家の中で過ごすという生活に、少なからず飽きている人が、今、沢山いると思う。それがどれくらい辛いか、私はよく知っているからこそ、何かできないかと考えていたけれど、私も週二回のバイト以外にできることが何も無く、起きてご飯を食べて、寝るだけで精一杯なのだ。少なくとも、誰かに分け与えられるほど上質なものを作れない。

中学時代不登校であり、中学校を知らないため中学生以上の年齢の人間を作り出すことが困難だ。と、Twitterで話をし、中学校のことを教えてほしいと頼んだところ、親切に教えてくれる人が複数人いた(ありがとうございます)。そんなこと言うくらいなら、中学校行けば良かったんじゃないの!? と思う人もいるかもしれない。言われる前に返答しておこう。私もそう思う。その通りだと思う。

不登校になったのは私の意思ではない。強いて言えば、諦めである。

東日本大震災が起きたのは私が小学6年生の頃で、卒業式を数日前に控えていたと考えるのが妥当だろう。あんなに大変なことがあったのに、あの頃の記憶はかなり曖昧だ。3月11日、この辺りもかなり揺れたというが母によると「ずっと寝ていた」らしい。全く覚えていない。

父の仕事の都合上、地震や大雨などの災害、またインフルエンザや今回のコロナウイルスのような流行の病気で日本や世界がめちゃくちゃになると、両親はずっとニュースを見ている。私がバイトから帰ってきても、コロナに関する話しかしない。それでも家で大人しく過ごしているのは、父の言い分もまあまあ納得できるからだ。無論、仕事に関わることだと言われればどうしようもない。

震災だけではなく、どうにもあの頃の記憶にはモヤがかかっているが、震災の影響で少なからず私の行動にも制限がかかったと考えられる。このような前提が真実であれば、この先の話も仕組みを見つけ、分解して考えられる可能性がある。


希死念慮は全くなかったが、自殺未遂及び自殺、自傷行為に可能性を見出した。試しにカッターナイフを使用した自傷行為をしたところ、思考が麻痺し、快感が得られると判明した。思えばこれは試さなくてもわかることではあったのだが。髪の毛を抜くのが楽しいと感じ、眠れぬ夜に乳歯が抜けたあとの傷口を引っ掻き回して血を流して遊ぶ人間だったのだから。

手の、指先の皮に、カッターナイフで切り傷を入れる。何故か血が1滴も出ないのをいいことに、この自傷行為にのめり込んだ。血こそ出ないものの、指先の面積は腕より狭いのですぐにすべて傷だらけになってしまった。深い切り傷だと傷が目立たなくなるのに1ヶ月近くかかると判明した頃だった。

のちに、期待されていたようなので実験も兼ね、誰かに対する感情とか懺悔で自傷行為をしてみたが、全く楽しくなく痛いだけだった。私にとっての自傷行為はシャブであり、トリップするための手段だったらしい。シャブにのめり込んでいたので思考が止まり、じゃぁ……次は手首だね☆!!とリストカットへの進行を試みてしまった。

小学生の時、私と同じくらいテストができる人間は全員塾に行っていた。にもかかわらず、大抵テストでは私が一番の成績をとってしまうので、なぜ?と言われることが多々あった。小学校に上がってからも、宿題を終えるとやることがなく退屈な日々を過ごしていた。

高学年になるにつれ、自主学習をしよう!といった文化が増えたのはありがたいことだった。父も母も勉強をすることに対して咎めることはしないのだし、それを学校に提出すれば褒められる。私も賢くなれ、テストでいい点を取ればクラスメイトと話をするネタになる。世界は完璧に回っていたのだ。もっとも学習の文化だけではなく、日記を書いたり、音楽を聞いたりなどの文化も増えていたので、本当にずっと勉強ばかりをしていたのではない。

テストの点数なんて無意味だけど、私の言葉は日々の成績が優秀かつ、それを親切に人に分け与えるからまず信用されていたのだ。人に親切にすれば、家では手に入らない情報が手に入る。そうやって賢くなることに興味があるし、やがてテストの点数に繋がっていく。例えば人に算数を教える時、算数以外のことをどれだけ知っているかが大切だと父はよく語った。

頭のいい人間が、私に勉強を教わりにきたり、または雑談になる時語る塾の話を聞くのが好きだった。沢山宿題を出されるようだが、学校の外で学校の友達と会えるようだった。外に出る時間を増やしたいというのもあるが、中学に通えば高校受験も控えているのだし、高校受験を頑張ってみたいから塾に通ってもっともっと、勉強を頑張りたい。この思考がどれくらい普通のことなのか、誰か測ってよ。


親に相談をしたものの、「家の近所に1対1指導の塾がある」と、そこへ行くことになってしまった。しかも私の都合ではなく、親の都合で日程が決められる。夜が遅いから迎えに行くと譲らない上に、迎えに来るのが大変だとこぼされるし、家族が待っていると急かされる。私に何かを訴える言葉、または暴力、……とかがあればなぁ。どちらもなかったので、自傷行為にのめり込むのは当然だろう。

思考が麻痺した中でも聡明だった判断を、ひとつ紹介する。手首だと目立つから、太ももや二の腕にしておこう、という考え方をしなかったことだ。どこでトリップしても、バレるときはバレる。学校のトイレでわざわざ制服脱いで自傷行為をするのは、バカでしょ。私にとって重要なのは「いつでも手首を切れる」という思想だった。目に見える傷跡より、まぶたの裏っかわの思想だけが真実だった。

手首を切るのはなかなか大変だった。痩せた手首にはカッターナイフの冷たさがよく伝わった。それが私の見せた夢であっても、恐ろしいと感じたのだ。2度目、「猫がつけた引っ掻き傷の方がよっぽど酷いだろう」みたいな傷をつけた時、ようやくカッターナイフが私のものになったのだ。きっと次は、ツウッと血が滴るに違いない。その時私は、どこにいるのかな?

このような記憶はイヤになるほど鮮明なのに、この頃家で何をしていたのか、友人とはどんな会話をしていたのか、学校では何を勉強していたのか、インターネットで何を見ていたのか、何が好きだったのか、何も思い出せない。おそらく、当時の私も「書いておかなければ忘れている」ことに気づいていた。あとはまあ、母のケモノの勘だ。


5月26日の朝、私を起こしにきた母がおもむろにこう言った。

「ねぇ、体調悪そうだし学校休めば?」

体調は悪かったが、冗談じゃなかった。家にいても休めないと分かっていたのだから。プール期間の検温で37.5度以上が出てもごまかして学校に行っていたし、部屋でさっき食べた夕食を戻して、汚れた床に途方に暮れても、学校を休めと言われるのがイヤで、ナントカ1人で処理したのだから。この日はその言葉で覚醒し、どうにか学校へ行った。翌日の朝も同じことを問われ、私は賢いので早々に諦めた。私が自殺するのが怖いんだろう。

それからは、大きな病院に時々連れていかれる以外、何もやることがなくなってしまった。体調が悪すぎるし、学校に行きたいと悟られるのも怖く、勉強をすることはやめた。人生おしまいなんて思っちゃいないけど、本なんてすぐ読み終わる。不登校が私の意思でない以上、下手な買い物もできない。外に出してくれないし、病院以外に連れ出してくれるわけじゃない。自傷行為もできなくなった。震災があってもなくても、遅かれ早かれこうなった。コロナウイルスの影響で、退屈で狂っちゃいそうな人がいる。

コロナウイルスが落ち着いたら、元の生活に戻る。○日を過ぎたら、いつかはきっと、いつかはきっと。高校なんて行かなくてもいいのよ、ていうか行けないんじゃない? そう、話しているのを聞いたことがある。バイト? 通えないんじゃないの? 卒業できないんじゃないの? 家の中で笑って生きることが、そんなに素晴らしいか。人の中で生きるために勉強しようとすることは、そんなに間違っているか。


不登校の少女の暴力は無意味だし、そもそも妹に力で敵わないのだ。私よりも無力な弟もいる。世界は世界だし、最近はバイト以外の外出がゼロになってしまった。バイトの日の悪天候も多く、送迎がつくことも増えている。両親はずっとニュースを見たりしてリビングで過ごしている。リビングの机が空かないので、食事を自室で取るしかなく、取りに行くのが面倒で食事の回数が減っていた。食事の回数が減ると体重が減るのだが、その数字の変動くらいしか楽しいことがない。

さすがに両親も食事が足りないことは心配しているので、最近はしっかりめの食事を大目に与えられるようになってしまった。コロナがあるんだから外に出ては行けないとヤンワリ伝えられているようで苦しく、食事の回数を減らす手段を考えている。量ではなく、回数だ。1人で食事をすることに限界を感じている。食事中はSNSを見ず、せめてYouTubeを見るように決めていたが、動画で寂しさを埋めきれないのだ。だから回数を減らせば、寂しいと思わなくて済む。しかし、現在1〜2回なのでこれ以上減らすとゼロになってしまう。今は、耐え忍ぶしかない。

少年少女の闇も、大人の発達障害も、全部外にある。例えば、事件にでもなったら内側を探ることがあるかもしれないが、本人たちにとっては無意味だ。外で作られたものは、外にいる人間のためにある。メンヘラなんて言葉にして、みんな、外に出られるくせに。内側にいる人はどうすんの。それが、私が家で料理を含む家事を担当できない理由だった。

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