また、自立支援について聞かれた

病院が終わって、サイゼリヤのランチスープを飲みまくって時間を流していたらまた、自立支援について聞かれた。

長く通院をするのであれば医療費が3割→1割になるからナントカカントカ手続きはナントカ説明し、「自立支援について質問されるの2回目だ ウケる」と笑った。「そういうイメージがあるのでは? 妹の話してますし」と返信があった。な~~んにも否定できない。その通りだ。実際、家族5人中4人が薬を飲んでいるのだから。

コロナウイルスが流行ってるから、診察が終わったらあんまりフラフラ遊んでないで家に帰ってくるんだよ。そりゃそうだわ。寝坊して朝食を抜いていたので食事だけはしてくると話をつけることはできた。朝食を抜いてもモバイルバッテリーは忘れずに持ってきていたのでDMに返信できたし、無限にツイッターができた。

諸々の返信が終わって、この日は「なんとなく」言われた通り即帰宅した。この後すぐに世界がメチャクチャになって学校が休校になったりしたので、寄り道なんてしていたら父に怒られていただろう、と母が言った。コロナめ、という一言で解決できればいいのだが、実はコロナがあってもなくても私の家はこんな感じだ。どこからどこまでが真実でも、私が外に出る理由を妨げる限り、さっさといなくなってもらうに越したことはない。


中1の夏ごろから定期的に通院し、服薬している。通院には長らく母、または父や妹が同伴していたし、薬も20まで母が管理していた。オーバードーズを心配されていたと思われるが、私はそんなことはしない。服薬自殺をする予定もない。

初めて薬を飲んだ時、特に何も感じなかった。回復も、不調もなかった。1週間ほど飲み、「特に効果を感じない」と母に伝えたところ「もう少し続けて飲めば効果が出るかもしれない」と言われ、そのまま20になってしまった。せめて、体調が悪化すればよかった。しかも飲み続けてる以上体がヤク漬けになってしまっているので、薬をやめると体調を崩すという悪循環を引き起こしていた。

病院とのやり取りにある程度親が介入しなくなり、7年ぶりに処方箋が変わりようやく「薬の効果」を体感した。「薬のせいで体調不良になる」ことも嬉しかった。今回の診察では、最近はほとんど薬を飲んでいないが特に体調が急激に悪くなる、などは無いこと、そのため前回処方された薬が丸々余ってると伝えた。春~夏にかけて体調が悪くなる傾向にあるので用心、という話で診察を終えた。


効かない薬を飲み続けられたのは、我が家の特殊な環境とそこそこのカネがあったからだろう。妹、そして弟も発達障害と診断され、それなりの薬を飲み続けているし、母も薬を飲んでいる。19を過ぎたあたりで自立支援の手続きをやらせてもらえるようになった。薬合ってないのになあ。両親は私に病気でいてほしいのだろうか。

1年くらい前からSNS、作品の中で家族の話をするようになった。それよりも前から親しい友人や、それに近しい仲になりたかった人間には、断片的ではあるが話していた。そんな日々の中で今回のように相談をされ、案外まじめにアドバイスをしてる自分がいた。これからそういうことが増えるかもしれない。

とはいえ、基本的に「人間はカネと飯がなければ死ぬし、殴れば死ぬ(=どうしようもない時、この3択からひとつ、ふさわしいものを選んでいつでも殺すことができる)」という暴力的な極論に縋って生きているので、あまり頼りにしない方が良いんじゃないか? それでも相談をされたときには、真剣に向き合うことを誓う。私は嘘をつけないし。


妹は、両親の最高傑作だろう。私と違い手の付けられない子供だったが、母が教育方針を改め、父がカネと足を支援し、そこそこまともに育った。私は幼いころから「妹、そして両親は少し違うな」と思っていた。何が違うのかをうまく言葉に表すことができない。少なくとも、幼稚園で見かける「親」や「自分より年下の子」とは「違う」ことを知っていた。

5歳の時に生まれた弟も、私が知っている赤ちゃんとは少し違うとすぐに分かった。同時に、「自分とかなり近い存在だ」とも分かった。世界から切り離されるかもしれないけど、一緒にカードゲームをすることくらいはできるようになりたいな、と思った。

この時点で、妹と、弟との3人で遊ぶことは不可能だと知っていた。どちらかが普通に育てば、父か母を交えて3人でトランプができるだろう、これは私にとって、本当に願望だったのだ。両親に「弟が大きくなったら」と話をしたことを覚えている。両親は私よりも、そんな可能性を夢見ていたに違いない。

母は専業主婦だったので、私は幼稚園に通っていた。2時になると迎えに来て、私は家に帰る。家では、基本的に何もすることがなくて暇だった。よそのおうちの子と遊ぶことも、外で遊ぶこともなく、家には赤ちゃんがいるので静かにしなければならない。母はずっと私と遊んでくれるわけではない。妹は私のことを認識していないようだし、弟はまだまだ小さすぎる。お手伝いをさせてもらえるわけでもない。

退屈だった。こんな日々がいつまで続くのだろうか? 小学校に上がれば何かが変わる? とてもじゃないが、そんな夢を見られるほど私はバカではない、何も変わらないことを知っていた。だったら、私がまだ小さな子供であるうちに全部壊してしまおうと考えた。このような動機を明確に持ったうえでやったことがひとつだけある。


父のいない昼間、食料などを買いに行き、自宅へ戻ったときのことだ。このころ私は、鍵の使い方を教わったばかり。私は荷物をもって、鍵を開け先に部屋に入った。母は自転車を片付けていて、すぐ家の中へ入らなかった。外から開けるための鍵は私が持っていた。外に、母と妹がいた。私は中から鍵を閉めてやった。このまま父が帰宅するまで、開けないでやろうと思っていた。

そうして家の中をぐるっと見渡すと、とても静かだった。いつもあんなにうるさいのが嘘みたいだ。

この家は、あまりにうるさい。しかも、何もすることがない。どこにも行けないなら、みんないなくなっちゃえばいい。もうなんにもいらないから、静かに暮らしたいんだ。おカネも家族も、そんなもの何になる。

このまま、――そんなつかの間の幸せは、外から聞こえる母の声で途切れた。少なくとも父の帰宅まで立てこもるのは、とてもじゃないが不可能だろうと判断し、私は鍵を開けた。当然母にひどく叱られた。明確な殺意を持っていたので、素直に叱られた。私は伝達手段をあまり持っていなかったので、子供のいたずらと判断されたのは幸いだった。この一件を反省しようと、反省しきれないまま大人になってしまった。

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