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糖度ゼロの恋バナ:実証学的な社会学と理論的社会学

ご挨拶

ごきげんよう。土曜日の夜、というか日曜日の朝早く、もう寝た方がいいと体は教えてくれるのに頭が全く休もうとしない。
バレンタイン絡みで恋バナしたいと思っていたんですが、知り合いの話が絡んでくるし、許可もとっていないのでどうしようかな〜と思ったきりそのままにしていました笑
ただ、ここで書いても正味バレないだろうというのと、恋バナ要素が薄すぎて糖度ゼロ、もはや何の話かすらもわからなくなる感じなので書いてみようと思います✨


本編

一枚で表すとこんな感じ

ことの顛末:理論的な社会学か実装的な社会学か

以前、大学の先輩からご飯に誘っていただきました。食堂ですが1時間ほどぺちゃくちゃおしゃべり。先方は私に好意的だったんじゃないかなと思っています。その時に社会学系の勉強をしています、と伝えたところ、俺も似たようなことやっているよ〜!と話を合わせてくださいました。それで、『初音ミクの消失』の速度で聞かれたのが、

従来の社会学といえば、プラトン・ソクラテス等に代表されるような理論的な議論が主体だった。しかし、ハンナ・アーレントのアイヒマン裁判の分析は、理論的社会学と実証学的社会学の分水嶺となった。Haloさんはこれについてどう思うか。すなわち、どちらの社会学を支持するか。

大体こんな話だったはずです…私の理解が正しければ。

補足説明

多分社会学やったことない人からするとわけわかんないと思うので補足説明。というか私も何を聞かれたかわからず質問に質問を重ねました汗
うわ〜〜ん、分水嶺って大学受験ぶりよ〜〜〜!と、思考回路はショート寸前でございました。せっかく奮発したのに鮭の西京焼定食を楽しむどころではなかったですね…。

ハンナ・アーレントはアイヒマンというナチスのえらい人が戦後裁判にかけられていたのを研究し、全体主義の病巣を官僚社会に見出しました。官僚社会というのは特定の役割を個人に与えてヒエラルキー化する仕組み。当時地縁社会の桎梏から放たれた一方でアイデンティティを失っていた人々に生きる意味を与えたわけです。ただ、その仕事にも没頭しすぎてそれが道徳的に許されることなのかどうか自分では判断できなくなります。そして、そういう道徳的に悪いことに手を染めている人たちはどうやって責任逃れしようとするかというと、

それを実行したのは個人としてのわたしではありませんでした。わたしは自らの発意でいかなることを行う意思もなく、その力もありませんでした。わたしは単なる歯車で、他者に変えることができるものであり、わたしの地位にあればどんな人でも同じことをしたでしょう。わたしがこの法廷に立たされているのは偶然の結果なのです。

Arendt, Hannah, [1964]2003, Personal Responsibility under Dictatorship in Kohn, Jerome, ed.,Responsibility and Judgement, New York: Schocken Books. (中山元訳, 2016, 『責任と判断』ちくま学芸文庫.)p.73, 75

と答えるわけです…
前の留学うまく行ってなくてSNS依存になっちゃったって駄々捏ねてる記事でも書きましたが、

じゃあ官僚主義によりなされた罪は誰のせいかって、それは関わった人全員の罪なわけですよね。一応。(ちなみにアーレントは身の危険を感じるとかそういう言い訳は通用しないと書いていますが、これに関して言えば疑わしさがあると私は思っています。)なぜなら、自分がやっていることがいいことかまずいことかっていうのは、自身が持っている道徳的良心から確かにわかるはずだからです。

…という歴史的にも非常に示唆的な指摘をなさったえらい先生がいたのですが、先輩は、こういう裁判例などから新しい定義や理論を導き出す実証学的なやり方と、今までのように半ば哲学というか形而上学的というか、そんな理論こねくり回す系の社会学どっちが好きか?とお聞きになっていた、のだと思っています。

私の回答

多分私が求められていたのは、従来の理論学・実証学的アプローチそれぞれから導き出された理論をつかって適当な(相応しい)事例を分析して対応させるか、理論学の瑕疵をついてみることが求められていたのではないかと思います。しかし…無理!全くプラトンとかソクラテスとか髭面のおいちゃんに興味が持てず、しかも当時3年の夏でまだまだ(今も!)たまごちゃんな私(東大は2年の秋セメスターから専攻をまなび始める)だったので、もう何もわからんでした。一泡ふかされておりました笑

ただ、私はジェンダーを学びたい系の人間ですので実世界からのフィードバックはかなり重視する人です。例えば、「個人的なことは政治的なこと」という言葉に代表されるように、フェミニズムは抑圧されてきた女性側の目線から生まれてきたものだと解釈しています。やはり社会を学んでいるのに理詰めだけで考えるっておかしくないですか?数学でも理科でも実験するし、言語学だったら実際の文献にあたって解釈を進めるのに、社会学だけ既存の理論をこねくり回しているのってちょっとおかしいと思うんですよね。かなり変動が激しい研究対象なのに、研究対象を観察し相互的フィードバックを得ながら学問を発展させないのって社会学の真髄というか面白みがないというか、と思っているのですが正直ソクラテスとかプラトンとか全然わからんから微妙。もしかしたら実世界のことも多少は考慮に入れているのかな?でも帰納的に社会を説明できる理論を探すのではなく、演繹的に新しい現象のあり方やその新しさの所以から具に観察して、そこから理論を進めていった方が楽しいと思うなあ。

この考え方か、客観性を持って社会現象を説明できる計量社会学が最近の流行りなのではないかと推察しているのですが、一度計量社会学の勉強会に入っていて、その時に聞いた話でいくつかなるほど…と思うのものがあったので、メモがわりに書いておきたい笑

「理論によって美しく社会を説明しようとするのも素敵だけれど、それは実力がないと難しい。計量社会学は客観性を持って手っ取り早く社会を説明できる」

賢い友達①

「質的調査によって少ない被験者からしかし濃密なデータを集めることによって研究したい対象を見極めて仮説を立て、計量社会学でその仮説の普遍性を数的に担保するのが理想」

賢い友達②

でも、そう考えると、ハンナ・アーレントの実績ってすごいなと。ハンナ・アーレントが考え出した理論は、アイヒマン実験でちゃんと証明されている。

多分、今までの社会学の流れって(違ってたら恥なので教えてください)

  • 理論的な、哲学的な、形而上学的な、もう禅問答みたいな社会学

  • 実証的社会学(質的研究、計量学的研究)

があって、特に計量学的研究をするのはプログラミングなどのスキルがいるのでそれだけでももてはやされるわけです。それでも、測定された結果の解釈には理論が必要なわけで、どちらもおろそかにしてはいけないなと思いますし、もしも研究の道に進むことがあればどちらもできる人間になるかどちらかができる研究者を探して(そういう人を見極められる力量が少なくともいるわけですが)共同研究したい。(自戒をこめて)。

むすび

というわけで、私の回答は「どちらも大切だけれどやはり実証学的な側面を削ぎ落とした社会学は肯定できない」でした。皆さんはどうお考えになりますか?

ついでにくだらない伏線回収、「理論的な社会学はつまらん!」と言っていた私ですが、他の記事にも書いてますが実は彼氏できたことありません…。そして、どこまでも理詰めで自己流の恋愛観を育み、最近は絶望しております…。今回話題に上がった人とはご飯に行ったのが3年生夏、このまま留学に来たので何もおこらず仕舞いでした笑。
さすがに帰国後はロマンスの神様が微笑みかけてくれることを祈って。


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