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 人間は、死後の世界で先に亡くなった人たちと再会できる、と言われることがある。「その根拠は何か」「誰がそのようなことを言っているのか」と聞かれれば明確な返答に困るが、一つの答えとしては、世界で市民権を得ている各宗教における死生観では、概ねそのような世界があると仮定しているためとしか言いようがない。熱心な信者たちにとっては、死後の世界はあるに決まっている。
 宗教といった大きな枠組みを一旦脇に置いて、より身近な例を挙げてさらに簡易的な回答を考えてみよう。

 事故で瀕死状態に陥った人や、危篤状態にある人が生死の境を彷徨っていた最中に「お花畑の綺麗な景色が頭に浮かんで見えた」とか「場所はどこかわからないが先に亡くなった親族と再会できた」と、体調を回復した後に回顧することがある。そのような言葉を信じるならば、「決して少なくはない体験者がそのように語っていたから」が狭義の回答である。
 ちなみに、お笑いタレントのビートたけし氏は、かつてバイクで走行中に事故を起こして転倒した際に、自分の体が地面に倒れて、血を流している景色を上空から見つめているもう一人の意識があったとテレビで語っていたことを私は記憶している。

 このように、本稿のテーマを考える以前の問題として、そもそも死後の世界があるのか、天国や地獄といった世界があるのか、という問題に直面してしまう。しかし、仮にどのような景色であったとしても、死後の世界は存在するという前提で、そこで人間はどのような姿で新たにやってきた亡者と再会するのかを考えてみたい。

 というのも、このテーマを考えるきっかけが身近にあった。現在、私の母方の祖母は認知症を患っており、老人ホームに入居している。この認知症が死後の世界での様相を考えるきっかけとなった。
 例えば、Aさんという九十歳の女性が亡くなったとする。彼女は八十歳から認知症を患い、息子のBさんのことはその頃から記憶がない様子で、面会のたびに「あなたは誰」と言い、息子の目から見ても母の表情はいつも上の空で、「息子の知っている嘗て元気だった頃の母親」では既になくなっていたとする。
 もし仮に、死後の世界で生き続ける姿が、この世で亡くなる直前の最新の性格のまま移行したのであれば、残念ながらBさんがいずれ後を追ってあの世で母親と再会できたとしても、それは感動の再会とはならず、そこにかつての母親の面影はこの世と同様、ないことになってしまう。
 死後の世界や天国は平和で良いこと尽くしと前向きに捉えがちだが、本当にそうだろうか。
 これまであまり考えたこともなかったのだが、人間は無意識のうちに「理想の相手の姿」をあの世でも適応してしまっている節はないだろうか。
 非情なことを言うようではあるが、生前最後の姿がその人にとってのベストな様相であったとして、死後の世界でもそのままの姿が移行するのであれば、交通事故で死亡した損傷の激しいご遺体はどのように扱われるのか。ご遺族が先に亡くなった者の後を追って、あの世で最愛の家族と再会できたと思ったら、見るも無残な損傷の激しい状態でさらに辛い気持ちを抱えたままの本人がそこにいたとしたら、いくら家族でも最初は怯むかもしれない。
 また、生前はダイエットに励んで見た目がスッキリしていた人が、どのような容姿で天国へ後から駆け付けた人と再会しているのか、とても興味深い。ある人にとっては、痩せている姿を想像するのかもしれないが、またある人にとっては太っている姿を想像するのかもしれない。

 このように考えていくと、あの世に行くことが出来ず現世に留まっている霊体の様相はどのように説明すべきなのか。自然とこちらにも考えが及ぶ。
 霊感の強い人たちが日頃から目にする、所謂、怨念を帯びた霊体や呪縛霊と呼ばれる霊体についてだ。
 無残にも事件や事故に巻き込まれて命を奪われたことで、人への恨みを抱いたまま亡くなったモノ(「物の怪」という解釈を強調するため敢えてカタカナ表記にする)。自ら命を絶った背景に他人からの悪しき言動があったせいで怨念を抱えたモノなど、「誰が悪者か」という正当性を除いて考えてみたとき、それらの感情は「人への恨み」という一点をもって「悪い感情」「ネガティブな感情」「マイナスな感情」である。
 そのような恨みなどのマイナス面が作用する念が強く残った状態では、現世の人間が霊体を感じ取ってしまったときに、本人が望んでいなくても生前最後の無残な姿となって霊感が強い人の前に現れてしまうのではないだろうか。だからこそ、人間は恐怖に慄き、驚くのだ。

 ここで、一つの反論が想定される。「死後に霊体となって感謝を伝えに来た人がいる。その人は優しい印象で、とても恨みやマイナスの感情は無さそうだった。全ての霊体が夥しい負の様相ではないはずだ」というパターンである。こちらについても考察してみよう。
 夢か現実のどちらでそのような怪異に遭遇したかはさておき、よく耳にする話ではある。ただし、この手の話に登場する霊体は単発であることが多いのではないだろうか。つまり、いつまでも感謝を言い続ける為に度々出現することはなく、一度や精々数回でこの現象は終了する。
 あくまで私の怪談蒐集の経験則での判断とさせていただくが、霊体がいつまでも、毎日、毎週のように感謝を言い続ける為だけに現れるパターンの怪談は聞いたことがない。
 理由は簡単だろう。怨念がないからだ。この場合の霊体は、何らかのきっかけで命を落としてしまったが、関係者に感謝を伝えきれず、最後の別れや挨拶が出来なかった。つまり、恨みとは正反対の「ポジティブな感情」「プラスの感情」が未練として残った為である。それゆえに、驚愕するような様相ではないのだろう。未練とは決して悪の感情だけではなく、諦めきれない、心残りなどの善の感情でもある。

 何らかのメッセージを伝えることが出来た霊体は、その場に留まることなく、やがて姿を消す。これを仏教の価値観に準えると「成仏」と捉えることができる。

 人生の最期をどこで、どのようなかたちで迎えるのが良いか。人それぞれ考えがあるだろう。しかし、「あちら側」から「こちら側」へ姿を現すときに相手を怖がらせない為の無難な策を唯一、講じるとすると、事件や事故に巻き込まれないように生きることには限界があるが、日頃からお世話になっている人に感謝の気持ちを伝えておくという、人間にとって基本的な礼節が実は最も有効と言える。
 プラスの感情であったとしても、未練を残してわざわざ霊体として現れる手間も省けて良いのではないだろうか。夢でも幽霊でも最愛の人とまだ逢えていないと嘆く人は、故人が充分に感謝を伝えきってあの世へ旅立ったからかもしれないとプラスに考えてみるのも一つの手段であろう。
 金菱 清(ゼミナール) 編『呼び覚まされる 霊性の震災学』(新曜社 二〇一六)や、奥野修二著『魂でもいいから、そばにいて 3・11後の霊体験を聞く』(新潮社 二〇一七)では、心温まる感動的な怪異譚が綴られている。

 ただし、先述したように、今回のテーマでもある「こちら側」から「あちら側」へ移動したときに、先に逝った方の「様相」はどのようなもので待ち構えているのか、結論づけるのはやはり困難である。それでも、一応の答えで本稿をまとめてみたい。
 恐らく、あの世はその人にとってのベストな姿で、この世では未練が残っているゆえにマイナスの怨念などが作用した場合にのみ、悲壮、悲惨な最期の姿で現れてしまうというからくりなのかと思う。私たちは後者を「化け物」とか「お化け」とか「幽霊」と認識して恐怖を抱く。そして彼らは何かのきっかけで成仏することが出来れば、この世ではマイナスが作用することで表出していた悲惨な姿から、あの世では晴れてプラス要素を持った本人にとってのベストな頃の姿で遺族や仲間を待ち構えることが出来るのではないだろうか。そうあってほしいという私の願いでもあるのだが。

 人を思い、感謝を伝えることは誰も傷付けない。そういうわけで、みなさん、実践してみよう。

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