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読書記録5:『社会学講義 感情論の視点』

 かつて大学院にいたころに読んだ本たちを、今になって読み込むと非常に示唆に富む知に溢れていることに気づきます。

 ゼミに2名の教授がいらっしゃいました。私が所属していた方ではなかった先生の本が上記なのですが、この方の研究が、今になって日々の思考に重要な視点をもたらしてくれます。在学中、せっかく教えを請うのだから、とご著書を数冊買い貯めておいたおかげで、今あらためて読むことが出来ています。

 この本が射程とするのは、「魅了される」というような感情的行為です。私財をなげうち、体の一部を失ってもなお登山を続ける人や、音楽に魅せられて仕事を辞めてしまった人など、どうしてそこまで、と思えるほどに人間が打ち込んでしまう、そのような極論から、「最近◯◯にハマってしまってる」という程度の軽いものまで、更には「なんか知らないけどあの人とはどうしても合わない」というような気持ちまで、行動の源泉に感情が横たわっていることが、確かにあります。

 私たちが行動を選ぶとき、利害得失があるから、主義主張に合致するから、といった選択や、社会がそのようにしろと制度化しているから、といった理由の選択があります。しかし「魅了される」ような経験はそのいずれにも当てはまらず、行動を選ぼうとするときには既に、意図せずその対象の行動とつながってしまっている、と主張されます。
 例えば、宝塚歌劇団が非常に好きなある人が、トップスターの引退公演の報に接したとする。すると、この人は仕事の都合をなんとかつけて、時には無理やり休んででも、この公演に駆けつける、そんな事態がありえます。この人に「なぜそうしたのですか」と訪ねたら、引退公演だから何としても見たい、と語るでしょう。「どうしてそこまで好きなのですか」と聞いたときも、「その人でないといけない」理由を相当に語れるでしょう。しかし、それでも「その人でないといけない理由」を語り尽くすことも、そもそも「なぜ宝塚がそれほど心を打つのか」をすべて整理することはないでしょう。この人にとっては、宝塚を他と比べて良いと合理的に判断して選んだのではなく、気がついたときには既に、宝塚に選択されていたわけです。
 
 対象とのこうしたつながりを、著者は「体験選択」と概念化しています。あることに熱中しているとき、人は合理的な行為の世界から、主客未分の体験選択の世界へと、一時的に移る。そして、行為が終われば合理的な世界に帰ってきます。しかし、あることに強く魅了されると、合理的な世界に帰ってきたはずが、元の場所とずれ、元あった生活と距離が出てしまうことがある。「夢中になった結果仕事も辞めてしまった」という事例を、著者はおおよそ上記のように表現します。
 帰ってきたときに「ずれないようにする」力が、社会的形式による統制機能であることも論じられます。スポーツや文化等も、馴化された体験選択であるわけです。馴化された体験選択は、「気分転換」としての役割を与えられます。
 以上は要約にもなっていない断片ですが、前提として整理しました。

 体験選択の視点が現在重要なのは、「主体的に行動する」ことが無条件に望ましいと思われている世の中だからです。現在望ましいとされている主体のあり方は、様々な行為可能性を手元においた状態で、自分にとって(ときに、社会にとって)望ましい行動を合理的に選択していくという姿です。興味関心に基づく自己決定は最も望ましい行為選択の方法であるとされ、「本当にやりたいこと」や「自分にあったこと」が称揚されます。
 しかし、なぜその行動を取るのか、と毎回説明を付けながら行動するのは、実は非常に不自然な姿です。説明ができる合理的選択だということは、他により合理的な行動が可能になった場合、その行動を取らなくてよくなるわけです。「自分の才能を活かせるのが野球だから、野球部に入ります」という行動は、その才能がより具体的に活きるスポーツに出会ったり、周囲がものすごく上手く、才能の実感ができなくなったりしたら、容易に終了してしまうでしょう。そこで辞めてしまうような活動は、「好きではなかった」とあとから評価されるものです。
 才能があろうがなかろうが、周囲が上手かろうがどうだろうが、どうしても野球が好きで思わずやってしまう、そういう経験は体験選択が描くように、主体以前にその対象に選択されているような状態です。あとから理由をどれだけつけても、根本的には「野球が好きだ」としか言いようの無い事態です。

 体験選択の視座は、説明のつかない「魅了されてしまう」という感情論の視点を導入してくれるため、すべての行為を合理的であるかのようにみなす風潮に風穴を開けてくれます。

 「やりたいことなんか別にない」という言葉もずいぶん聞こえる世の中です。高校生も、スマホアプリやソシャゲや動画サイトに莫大な時間とコストを費やしていますが、別に彼らはそれが特段好きだというわけでもなさそうです。それらは極めて適切に馴化された体験選択であり、それを経験していたとしても、ごく一部の例外を除き、彼らは経験前と同じところに確実に帰ってきます。
 むしろ、根本的に自分が変わってしまうような体験選択を、どこかで恐れているのでしょう。自己変容とは「自分らしさ」を失うことでもあります。それゆえ、のめり込みそうになる可能性と、正しく距離を取っているのかもしれません。

 それでも、行動のすべてを馴化することは出来ません。ある時、突然出会ったものに心奪われてしまったら、もう以前の生活には戻れなくなるわけです。そういう対象に出会ってしまうチャンス(リスク)は、常に転がっているわけです。

 読書記録3『暇と退屈の倫理学』での議論と接続が出来そうです。退屈な「消費」から暇で贅沢な「浪費」への移行は、合理的選択だけでできることではないのかもしれない。暇とは魅了される対象を待つ余裕であり、魅了されたことにあらゆるエネルギーを注ぎ込める余裕であるとするなら、主体以前に心奪われる体験が現在の世界で持つ意義は大きいことになるでしょう。


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