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読書記録10:『贈与と交換の教育学』①

このnoteのように、考えたことや読書した記録を文にまとめていきたいと考えるようになったのは、考え読んだことを「自家籠中のものとしたい」からでした。そうした気持ちが特に沸き起こったのが、2022年に、この本に出会ってしまったことがきっかけでした。

この衝撃的な一冊を、2年経って改めて読み直し、考える起点にしようと思うのです。この一冊からは、あらゆる教育論の一面性を暴露し、全く別の教育を構成しうる可能性を感じてなりません。その割に、改めて読んでも、実は主張は極めてシンプルです。本書の豊かな世界を自家籠中のものとするために、「発達としての教育」と「生成としての教育」とを、現場の教育に落とし込むところまで考えてみます。

まずは「発達としての教育」を捉えるところから。現在の学校教育が理想とするところについて、文部科学省が新しい学習指導要領の改定について、次のように述べています。

学校で学んだことが,子供たちの「生きる力」となって,明日に,そしてその先の人生につながってほしい。
これからの社会が,どんなに変化して予測困難な時代になっても,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,判断して行動し,それぞれに思い描く幸せを実現してほしい。

そして,明るい未来を,共に創っていきたい。

「学習指導要領」には,そうした願いが込められています。

これまで大切にされてきた,子供たちに「生きる力」を育む,という目標は,これからも変わることはありません。
一方で,社会の変化を見据え,新たな学びへと進化を目指します。

生きる力 学びの,その先へ

文部科学省ウェブサイト https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1383986.htm#section4

非常に典型的な表現です。学校教育は、子どもたちに「生きる力」を育むものである。学校教育を通じて、子どもたちは幸せを実現し、また未来を共に創るようになる。これは本書の中で「発達としての教育」とまとめられる教育観です。

学校において、子どもたちは当初は未熟な状態であり、そこから諸々の力=有用な能力を習得して、理想的な「人格」を目指す。習得の程度は教員によって、常に定量的・定性的の別を問わず評価される。同時に、子どもたちは「未来社会の形成者」であることを期待され、共同体の担い手となることを求められていく(社会化)。
つまり、「発達としての教育」とは目的に即して行われる合理的・計画的な手段(カリキュラム)の集合であり、その価値は常に未来から逆算され、定量化され評価されるわけです。

そして、「発達としての教育」が未来から逆算されるものであるために、学校における現在とは、未来に向けた準備としてみなされる。こうした見方は、未来の良い結果を受け取るために、現在を準備に費やす、労働の見方に由来するものであると評されます。

現在、高校においていろんな行事やイベントを企画する際に、「それを行う目的は何か」という指摘が(管理職や教育委員会から)頻繁になされます。目的が無い、あるいは貧弱な行事は「それをやる意味はあるのか」と問い詰められます。
私たち教員はそんなわけで、「新緑の季節にみんなでバーベキューをしに行く」という活動に、「クラスの人間関係を深め、それぞれが役割を果たす経験を重ねることで、集団生活の向上を図る」だとか、おおよそ不釣り合いな文言を創作することになります。「この季節に外で肉焼いたら楽しいやん?」という人間的な感覚は許されません。「それなら税金でやる意味はない、余暇の時間に行けば良い」と返ってくるからです。「やる意味」が無いことは、してはならないのです。「教育活動」と称されるものはすべて、目的に対する手段であるわけですから。

また、「学習者主体の教育」という主張も、この「発達としての教育」の思想から導き出されます。子どもたちがどう学び、どう学習するのかという視点で「教育活動」を捉え、教師は「学習の支援者」として振る舞うべきである、という主張です。G.ビースタのいう「教育の学習化」が指すものです。
教育の成果は「子どもがどれだけ能力を習得し、有用性を獲得したか」であるわけです。引用した文科省の文章からも、「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,判断して行動し,それぞれに思い描く幸せを実現し」ていく子どもの育成が目指されています。ここに、視点は子ども個人に集中します。教員とは、子どもが力をつける時に介在する支援者であり、同時に「生徒の主体性」が目指されることで、「生徒が自ら考え自ら学ぶように誘導すること」以上は、活動目的から外れることになるわけです。

子どもが自ら学び自ら考え、有用な能力を獲得し、将来の社会の形成に向けて努力する。教員はその目的が実現できるよう、合理的な支援計画を考え実行し、数値的に評価をする。現在の「理想の学校」とは、そのような場として端的に描かれます。要約してしまうと非常にグロテスクにも見えるのですが、現場で日々交わされる言葉や、いろんな「教育改革」で飛び交う言葉は、これをグロテスクとは思わないものが多いというのが実感です。

本書はこの「発達としての教育」の根本的な必要性までを否定するものではないのですが、同時に学校教育で起こっている様々な出来事を「発達としての教育」だけで捉えることは不可能であると主張し、根本的に別の秩序である「生成としての教育」への着目を訴えます。そして、「生成としての教育」は、戦後教育学が根本的に見落としてきたものであり、ここに着眼することで、「教育学の限界」を通り越し、「教育」というものの臨界点に至る「限界への教育学」が可能になると捉えます。

この「生成としての教育」という、論理性・合理性の彼方にある出来事を、科学論文の垣根も超えて文学の力を借り、なんとか語ろうとしていることが、本書の焦眉だと言えるでしょう。

これを書いている現在、教職離れの問題と、給特法の改定に関する失望といったニュースが飛び交っています。しかし、給特法を改正し残業が減ったところで、根本的に教職離れを止めることはできないでしょう。「教えること」に備わった魅力(魔力)が削ぎ落とされ、教員が「支援者」に成り下がっている「発達としての教育」を行うスタッフに、未来はないからです。
しかし、本書が描く「生成としての教育」の担い手というのは、魅力的なばかりか人生を賭けて希求する人間のあり方だともいえるでしょう。これを目指しながらお金までもらっていいんですか、というほどの豊穣な世界との交感が可能になるように思います。

次回は、「生成としての教育」の「生成」という言葉について、もう少し考えてみます。

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