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読書記録7:『<責任>の生成』①

ここ2,3年の読書の中で、國分功一郎先生の著作からは、重要な示唆をもらっています。今回の『<責任>の生成』からも、多くの刺激があります。論点も複数あるので、数回に分けます。

スピノザを専門とする哲学者國分功一郎さんと、脳性麻痺の当事者であり、東京大学先端科学技術研究センター準教授の熊谷晋一郎さんとの対談・研究を収めた本。國分功一郎が『中動態の世界』を出したあと、2017年~2018年に行われたものです。
『中動態の世界』も改めて読み直して書きたいと思っているものです。國分先生は私たちがあらゆることを考える源泉たる言語・文法に内在する構造に注目し、あらゆることを考え語ることにどういう暗黙の枠組みが存在しているのかを問い直す論考を重ねておられます。

かつて言語に存在した「中動態」(主語が動作の「場」となる過程を示し、主語は過程の内部に位置する)に着目すると、まずもって「主体(主語)」のありようが問い直されるわけです。
主体が客体としての他者や環境と関わる際に、能動/受動のいずれかになることが想定されるという前提は、あらゆる行為論の基底にあったわけです。しかし、この本に出てくる障害者への支援、依存症患者のケア、そして私が日々考えている教育、ひいてはコミュニケーションが問題になることすべてにおいて、能動/受動の二分法的な思考の限界が露呈している。
その中でも「責任」と「意志」についてを主眼に行われた対談が、今回読んだ『<責任>の生成』です。含まれる論点は豊富ですが、依存症患者や発達障害のある人の生き様を具体例として、「自分の意志で自分をコントロールして生きること」について、中動態やコナトゥスを切り口に問い直していく、というのがおおよその方向性です。

さて、この本を読んでいて考え直すに値すると考えた論点①。
現在、「生徒の主体性」というのは教育において極度に重要視されています。「生徒を主語にしたカリキュラム」も、目指すべきものであるとされています。
かつての学校教育は履修科目や学び方、校則や進路指導など、いずれにおいても学校が(教員が)定めて従わせてきた。生徒の主体性は抑圧され、自分の頭で考え行動することが乏しかった。こういった認識が、「生徒の主体性」を掲げる背景にあります。
私の職場においてもこうしたトレンドは顕著であり、「文系・理系」といったコース分けを廃止し、偏差値をベースにした受験指導を排除し、学校が一方的に定めた校則を生徒の会議が是正する、といった取り組みがなされています。

こうした取り組みには一定の価値も必要性もあることは認めつつ、それでも「生徒が自分の頭で考え選択することは主体的である」という構図には、以前から違和感を覚えてきました。この違和感を語る言葉が、『<責任>の生成』からもらえたように思います。

いかなる時であっても、人はすべての行動を自由に選べるわけではない。選べることであっても、その時の様々な事情や文脈の影響を受けに受けて、決断したりしなかったりしながら行為している。これをアーレントは「意志とは切断である」と評して、あらゆる事情や文脈を切断し、「選んだのは私の意志だった」ことにする営みが意志であるととらえた。この視点に基づくと、アルコール依存患者は「アルコールを自らの意志で痛飲すると決めた意志の弱い人」と捉えられてしまう。
これは『中動態の世界』にも出てきた発想ですが、これをさらに「責任」の観点で深めているのが本書でした。意志があったから責任が問われるのではなく、アルコール依存を逸脱としてとらえてその責任の所在を問う時に、初めてその人に意志があったことになり、行為がその人に帰属される、と。

本書では依存症患者が「意志して行為を決めた」と考えることの不可能性を中動態を使って説明していくのですが、学校教育にこれを応用すると、次のような指摘が出来ることになります。
例えば、生徒が「自殺したい」と言い出した時、学校教員は普通止めます。ですが、生徒が主体的に死を選びたいと言い出しているのに、なぜこれを肯定できないのでしょうか。もちろん、倫理や社会通念に反するからです。「あいつを殺したい」も同様に否定できます。
さて、どこまでが止めるべきものでしょうか。「宿題やりたくない」は?「学校辞めたい」は?これらを「それが君の選択なんだね」と肯定することは、一般的に行われていません。そして、次に行われることは説得です。それがいかに間違った選択か、一面的にしか考えられていないか、教え諭すでしょう。学校以外では、「ジムの会員辞めたい」と言っても別に説得はされません。教え諭すことは、教員の役割でもあるわけです。

なぜ教員は生徒の選択に教え諭すことを選ぶのか。生徒が未成熟の存在であり、見えていない様々な文脈に想像力を働かせ、精緻に思考することはまだ難しいからです。
こういうと生徒の可能性を否定しているという意見が返ってきそうですが、この指摘は全く的外れと言わざるを得ません。生徒をそのような未成熟の存在とみなすことは、教育の成立要件であるはずだからです。
生徒が選択することが主体的であり尊重されるべきであるととらえるとき、生徒が行った選択について、無限の責任を課すことになります。無限の責任を課すとき、生徒はあらゆることを意志して決定できるとみなすことになります。これが出来るなら、子どもは学校に通い、他者の指導を受ける必要はありません。スキルだけカルチャーセンターのようなところで身につければいいことになります。逸脱した場合は、教員が指導などせず、すぐ法権力の制裁を加えればいいはずです。進路指導も必要ない。生徒が行きたいといったところに行けばいいし、失敗してもそれは生徒の選択なので、特に何もしなくていいわけです。
でもこういう姿は、教育とはみなされないはずです。
生徒は何が自分に必要で、何を欲しているか、わからない。わからないから、逸脱ともいえる行動に走りがちである。だから彼らに責任を問わず、教え諭すことを通じて、彼らの成長を待つ。こうした営みが教育であるはずなのです。どれだけ豊かな選択肢を学校が用意しようが、それだけでは教育は成立しないわけです。

こう考えると、「ルールを作って従わない生徒を指導する」というのも、実は教育的ではないと言えそうです。
校則の条項を少なくすると、「生徒を指導できない」と懸念を示す教員は一定数いるのですが、彼らは「生徒がその行動を選んだこと」のみに着目していることがわかります。ルールに反する行動を選んだから、その責任を彼らの意志に転じて、矯正しようとするわけです。
例えば、スカートを切り詰めてきた生徒に対し、「スカートは短くしてはいけない」という項目がないと指導ができない、という議論が身近に行われていました。項目がないなら、一切指導はしないのが学校の方針だと言明せよ、と迫った教員もいました。
本来、この生徒について一番問われないといけないのは、「スカートを切り詰めた服装をカワイイと言っているのはごく一部の世界のみである」ことを、未熟さゆえに分かっていないという事実です。スカートの短さは結果にすぎません。それ以外の服装の在り方を知らないから、ほかの服装をしたいと思えていないのです。
医学において、インフォームドコンセントが医者の訴訟リスク低減のために機能していたという指摘も本書にありました。生徒に引責させるということは、教員を免責する行為でもあるわけです。
こうした個人の意思決定モデルに対し、本書は「集団の欲望形成モデル」を提唱していました。これは、今までやってきたこと、考えてきたことに形を与えてくれるような表現でした。
非常に目が開かれた気持ちです。続きはまた。

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