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「世界一受けたい授業 家族で見てます」

36枚の「自己紹介シート」が、緑色の掲示板に並んでいる。花粉がへばりついたその紙には「好きなテレビ番組」の欄があった。

中一らしく当たりさわりのない回答が並ぶなか、Iさんのシートが目に付いた。勉強もスポーツもそれなりにこなし、癖がない控えめな性格で、育ちの良さを感じさせる子だった。

「世界一受けたい授業 家族で見てます」
(家族の小さい似顔絵つき)

中一のクラスメイト・Iさんの「好きなテレビ番組」

私はこの文にいたく感心したので、今だに覚えている。
「そうか!!こう書けば良かったのか!!!」

自分が何をどう書いたかはサッパリ覚えていないが、私のことだからどうせ「NARUTO(我愛羅の真剣に描いたイラストつき)」とか「アイシールド21 葉柱さんカッケー!!」などと書いてあったに違いない。

「世界一受けたい授業」は私も比較的好きな番組だったから、そう書いてもよかったのだが、なんとなくオリジナリティに欠けるというか、同好の士に見つけてもらうには弱いというか。ともかく当時の私には「家族で見てます」などの、年相応ながらも事実に即した、いい感じのおまけ文を一言添える、そういうアタマがなかった。

それからというもの、Iさんの「家族で見てます」をまねて、色んな感想文やレポートで「いい感じの一言」をひねり出そうとしたが、何度やってもうまくいかない。大人になった今なら「私にはこういう牧歌的な表現は向いてないんだな」と諦めがつくし、高校くらいからは私なりの文章でそれなりに評価をもらえたりもした。しかし当時は自分の特性がよくわからず、自信もなかったので、何か文章を提出するたびに「もっと“いい感じ”になったはずだったのになあ」と歯がゆい思いをしていた。

私はずいぶん長いこと、この「年相応ながらも事実に即した、いい感じ」ができなくて、そこで読書感想文も自由研究も何もかもひっかかっていた。NARUTOや黒魔女さんが通る!のオタク感想文なら大量に書けるし、死刑や拷問の歴史とか形而上学的問題などにはかなり興味があったのだが、どれもこれも「それはちょっとね」と没になるのが目に見えていた。選択肢を自ら狭めていただけだと思うし、今なら人目を気にせずできるが、当時は失敗や恥を恐れていた。ちょうどいいもの・いい感じのものにはあまり興味が持てなかったし、いい感じの一言は私らしくなかったのだ。

少しだけ背伸びした“いい感じ”の表現を、自然にできたIさん。今は私と同じ30歳のはずだ。年相応ながらもわずかに大人びた雰囲気をまとい、後輩社員などから慕われているのだろうか。

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