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パロディ小説『別の店のペプシを飲んだよ』

『別の人の彼女になったよ』wacci 

***

 よく通っていた喫茶店が禁煙になった。

 その店は我が家から徒歩5分の場所にある。自家製のコーラは甘過ぎで、口髭をたくわえた70過ぎの店主は無愛想で、店内にはタバコの煙が充満していた。スタンドライト1つしかないので洞窟みたいに暗く、どんよりとした雰囲気の店だった。

 店主がいつも座っている椅子の背後には、観たこともない洋画が常に投影されていた。「一体これは誰のために…」と来店するたびに思っていた。別に店の雰囲気が好きで通っていた訳ではない。ただタバコが吸えるという理由で利用していた。にもかかわらず、いざその店が禁煙になって足が遠のくと、何か大切なものを失ったような気分になった。

 替わりの店はすぐに見つかった。同じく我が家から徒歩5分にある店で、店内は清潔で喫煙ルームが完備されていた。店員の接客も丁寧だ。それに、喫茶店には珍しくペプシ・コーラがメニューにあった。私はコーラの中でペプシが1番好きだ。だから発見した時は心が躍った。これでもう、甘いコーラではなくペプシが飲める――。せいせいした気持ちになった。前の店の存在など、頭の片隅に追いやっていた。

***

 しかしこの間、新しい店で居心地の悪い日があった。店内に足を踏み入れると、客のほとんどがお洒落をしていて、皆姿勢よくコーヒーを飲んでいるのだ。私はビーサンを履いて、パジャマみたいな恰好で、寝起きそのままのすっぴんだった。周囲の客はなるべくちゃんとした格好をしているのに、自分だけ浮いているようで恥ずかしかった。

 前の店では、こんなことはなかったのにな――。頭の中で呟く。前の店は友達を連れて行ってフェスみたいにはしゃいだり、大きな声で愚痴を言っても許された。でも新しい店ではそれが出来ない。それをすると、他のお客さんに叱られてしまう。皆「マナー」という現実、つまり、正しいことだけしか言わないお客さんなのだ。私は新しい店で自分をさらけだせなかった。友達を連れて行って、自分たちの将来について真剣に議論したり、怒鳴り合いはおろか口喧嘩をすることなど出来なくなっていた。

***

 前の店について、印象深い思い出がひとつある。ある日、店に入ると他に客はおらず、私はひとりでカウンターに腰掛ける形となった。甘過ぎるコーラを注文し、相変わらず美味しくないなあ…と思いながらタバコをふかしていた。壁にはいつも通り知らない洋画が投影されていて、店主はコーラを出した後、私に背を向けてその映画を観ていた。

 その日の映画はどうやら恋愛映画で、ある男と女が数年ぶりに再会を果たすという内容らしかった。私は最初、「また知らない映画流してる……」と冷めた気持ちだったのだが、途中から内容が気になり始め、映画が終わる頃にはすっかり感情移入して涙を流していた。とても素敵な映画だったのだ。

 まずい、店主に泣き姿を見られたら恥ずかしい――。私はパーカの袖で目元を拭った。映画が終わり、スタッフロールが流れ始める。にわかに店主が振り向いた。店主の両目からは、大粒の涙が溢れ出ていた。この人、映画を観て私よりも泣いている。照れくさそうに微笑む店主の顔が目に焼き付いた。こんなおじいちゃんでも、映画で泣くことがあるのかと驚いた。

***

 私は今日も、新しい店で大好きなペプシを飲んでいる。だが気分は落ち込んでいる。なぜなら先ほど、「これってもうちょっと甘く出来ないですか?」と店員に尋ねたら「そういったご希望は受け付けておりません」と言われてしまったからだ。もちろん、既成のペプシの味を変えることが不可能なのはわかっている。でも前の店だったら、「ああ、じゃあガムシロップいれてやろうか」と無愛想ながらも私の希望を聞いてくれたものだ。くどいようだが、自分がわがままなのは理解している。なぜか突然甘いコーラが恋しくなって、新しい店でもそれが飲みたくて、無理だとわかっていて注文したのだ。断られるのは当然だろう。既成のペプシを甘くするなんて、夢みたいな話でしかないのだから。

 ただ、それでも――。もう少し話を聞いてくれてもいいと思った。前の店に行きたくなった。でもダメだ。前の店は禁煙になってしまったのだから。私はタバコを吸うために喫茶店に通う。それが出来ないのだったら、スーパーでペプシを買って来て自宅で飲めばいい話だ。妥協する訳ではないが、私は自分をさらけだせないにも関わらず、この店でおとなしくしているしかない。本当は前の店に行きたいのに。ごめんね、前の店。こんな私、ずるいね。

 だからもう、行きたいや、ごめんね。前の店に、行きたいや、ずるいね。今日も私は、別の店のペプシを飲んだよ。別の店の、常連になったよ。だからあなたも、早くなってね。別の客の行きつけに。私が禁煙をしちゃう前に。

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