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悲しいオムレツ


 昔は、と利恵は思う。昔は、男に振られたくらいでここまで動揺するようなことはなかったのに。はちきれんばかりに食材が詰めこまれたスーパーのポリ袋を下ろして、小さくため息を吐く。ポリ袋を覗き込むと、紙でできたパックに包まれた10個入りの卵が目に入った。利恵は卵料理を好まないので極力買わないようにしているのに、たまたま安売りされているのが目に付いて深く考えないままに買ってしまったのだ。今日の夕飯はオムレツにしよう。具がたっぷり入っていて、バターを薄く敷いた鉄のフライパンで軽く優しく焼き上げた、焦げ目一つない完璧なオムレツを作るのだ。

 料理をするのは嫌いではない。ひとつひとつの工程を丁寧かつ正確にこなせばその分結果が返ってくるので、利恵の性に合っていると思う。半分に切った玉ねぎの皮を剥いて、さっと水で洗う。そういえば、子供の頃は玉ねぎが嫌いだった。幼い頃、利恵は偏食で玉ねぎだけではなくいろんなものを受け付けない子供だった。トマト、人参、アスパラガス、牛肉と豚肉も嫌いだったので、母親はあの手この手で利恵の偏食を治そうとした。その甲斐あって大人になった今、利恵は多少の好き嫌いはあるものの偏食と呼ばれるほどのものではなくなった。冷蔵庫の中からバターケースを取り出して、薄く切り出しフライパンに落とす。まだ火は点けていないが、バターはフライパンの上で僅かに溶けてするりと滑る。それを横目に、切れ目を入れた玉ねぎを黙々と刻む。ついこの前包丁を研いだばかりなので、すとんすとんと包丁が入る感触が心地良い。

 利恵が男を好きになるのは3年ぶりのことだった。そわそわと落ち着かない気持ちに襲われて、あまりにも久々の感覚だったので自分でも驚いた。昔のように夢中になって我を忘れたり、浮き沈みが激しくなったりするようなことはなかったし、利恵の生活が大きく変わることもなかった。ただ、いつもよりほんの少し自分に手間暇をかけてやろうと思うようになったくらいのことだった。

 耐熱ボウルに牛ひき肉と玉ねぎ、それから塩胡椒とオイスターソースを入れて、ラップをして電子レンジに入れる。本当はフライパンで炒めたほうがいいような気もするのだが、利恵の家にはフライパンが一つしかないので仕方がない。自分だけのために作る食事でほんの少し手を抜いたところで誰も咎めないのだから。

 「利恵のことは好きだが、今は誰とも付き合う気はない」
真昼間のラブホテルで、利恵の好きな男はこう言ったのだ。利恵がふと漏らした「好き」という一言に対して。まるで前々からそう言おうと考えていたかのように、淀みなく、晴れやかにそう言い渡された。利恵は男の言ったことを言葉通りに受け取って、今ではない「いつか」を待てるほど子供でない。だからといって男が利恵の気持ちを弄ぼうとしていることを責められるほどの気力も持ち合わせていなかった。ただ、注意深く守り続けてきたうっすらとした希望がふっと消えたのを感じただけだった。

 コンロに火を点けて、バターが溶けたらすかさず卵を流し込み、かき混ぜると嫌な感触を覚える。卵がフライパンにくっついてしまっているようだ。しかし、流し込んでしまった以上どうにもできないのでそのままゴムべらで丁寧に卵をこそげるようにかき混ぜるが、フライパンの表面には卵がへばりついてしまっている。ゴムべらではどうにもできなさそうなので木べらに持ち替えてフライパンの表面をこする。きっと火をつける前からバターを入れていたのが悪かったのだ。すぐにバターが溶けて、フライパンが温まっていないうちに卵をいれてしまったから、バターが行き渡っていなくて焦げ付いてしまったのだ。馬鹿みたい、と利恵は独りごちる。何もかも、馬鹿みたいだ。男に振られたくらいのことで動揺して、慣れない料理を作ろうとして、案の定失敗するなんて。夢中じゃない、だとか振り回されていない、だとか自分に言い聞かせながら、休日の昼間に呼び出されるままに待ち合わせ場所に向かって、安いラーメンを食べてからラブホテルに行くなんて、いいように扱われていただけじゃないか。そんなことはわかっていたし、期待なんてしていなかった。涙だって出ていない。それなのに、どうしてこんなに悲しくて、寂しくて、孤独なんだろう。

 深い青で縁取られたディナープレートの上には、もはやオムレツとは呼べないほど不恰好な卵と、オムレツの具となるはずだったものが載せられている。フォークで卵を少しだけ切り取って口に運ぶと、ほんのりとバターが香る。火を入れすぎてしまったので、少しぼそぼそしていてあまり美味しくはない。やっぱり卵料理はあんまり好きじゃないな、そう思いながらもどんどん食べ進めていく。大人になってしまった今、贅沢は言ってられない。たとえ美味しくなくたって、食べなければ生きてはいけないのだから。

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