子どもたちが規律正しくなくて、面白かった。運動会。

 先週末、弟の子どもたちの通う保育園の運動会に行ってきた。父がちょうどその日用事があって行けなかったので、母のドライバー役を務めたのだ。1歳から6歳の幼児たちがあんなにわらわらいる場に普段居合わせたりしないものだから、とても面白かった。

 一番(面白いなあ)と思ったのは、子どもたちがとにかく、ぴょんぴょんわらわらちょろちょろしていたことだ。整列していても陣地にいても跳ねたり動いたりしているし、まだおむつの1歳児たちはママやパパの膝から這い出す。4歳の姪っ子はしょっちゅう観客席のパパママばばおばに手を振ってくるし、2歳の甥っ子はアンパンマン体操の時どっか行っちゃったと言ってた。先生がマイクでアナウンスしていても子どもたちはわーわーきゃーきゃーしているし、園児たちのおにいちゃんおねえちゃんたちであろう外野の子どもたちも、そこいらじゅうを走り回っている。それがザ・学級崩壊みたいな荒れて混乱して手に付けられない状態な訳じゃなくて、ごく普通にナチュラルな感じで、子どもたちもすごく楽しそうだった。先生たちも意に介さずというか、いつもこんな感じです、みたいに普通にしていた。

 よく考えたら、子どもってこういう状態が普通だよなあ。運動会なんて体動かすテンション上がるシーンで、そりゃあ体もぴょんぴょんするし、声も出るだろう。甥っ子姪っ子と遊んでて彼らの持ちが高揚してくると、何するでもないのにキャーって笑い出して走り出したりするし。水を打ったように静かな会場で、一糸乱れぬ団体行動をする未就学児って、ないわな。考えてみたら当たり前のことなのだが、これだけたくさんの幼児が一堂に会してぴょんぴょんきゃーきゃーしていて、それでいて平然と平穏である様を目の当たりにすると、すごく説得力があった。

 演目がまた、この日のために練習と訓練を重ねてこんな凄いものに仕上げました、ご披露いたします!みたいな気合のこもったものじゃなくて、いっつもこんな感じで体動かしてます、こんなこともできるようになりましたよ、おとうさんおかあさん見てね、みたいな、普段の延長線上にあるような感じでよかった。一番面白いと感じた演目は、「幼児リズム」というアクティビティだ。先生がキーボードを演奏して、それに合わせて子どもたちが体を動かす。ひとつのメロディに対してひとつの動きが紐づけられていて、あるメロディが流れている間は一定方向へ泳ぐ魚のようにすいすいと走ったり子馬のようにギャロップしたりしていたかと思うと、メロディが変わった途端にうずくまったり寝転がったりと動作をチェンジする。体を動かすことと音楽が結びついた、楽しくて気持ちよさそうなアクティビティだった。今の子どもたちって、こういう活動してるんだなあ、と感慨深かった。

 そしてまた面白かったことは、競技で競わないことだった。レース形式で、スタートした後に滑り台を通ったり網をくぐったりケンケンパしたり鉄棒したり三輪車を漕いだり、いくつかのプロセスを経てからゴールするのだが、ゴールにテープは張ってあるけれども、別に先に辿り着いた方が勝ち、じゃないのだ。子どもたちはマイペースで、自分の納得いくだけの時間をプロセスにかけるし、逆上がりできる子はするけどそうじゃない子は足掛けまわりだったりするし、それどころか鉄棒じゃなくて縄跳びを選択する子もいる。速い遅いできるできない、といった「違い」はあるのだけれども、それによって「勝ち負け」とか「優劣」がつかないのだった。

 要するに、「子どもたちが一糸乱れぬ規律正しさで、訓練を重ねた技を披露し、その優劣を競う」といったことを全くしない運動会だったのだが、そこがとても面白かったのだ。それはこれからの社会で、とても大切になってくることだと思う。なぜなら、「矯正された均質な個々が、同一の価値観の元で、一元的なものさしで競い合う」社会の行き詰りや歪みは、もう見え始めているからだ。「多様性を持ち、勝ち負けではない関係を築く」、このことは、近年議論が高まってきている男性の生きづらさをほどく上でも、大事な方向性なのではないだろうか。

 そう考えると、(この子たちが大人になる頃には、日本もちょっと変わってくるんじゃないかな)と温かい気持ちになった。そして、運動会には若いパパさんたちがめっちゃいたんですよねえ。いいよねえ。こういうのも、(次の世代の子たちの社会は、変わるかな)という、希望が、見える。

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