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眠れない夜の哲学家ごっこ ~【永遠】についての一考察~

こんばんは、心太です。

今回は、表題通り哲学家ごっこをしたいと思います。
テーマは【永遠】について。

知人との会話でたまたま話題になったことを、自分なりに考えをまとめてみました。

対象による違い①
普遍的な【永遠】について

 【永遠】について語るとき、前提として考えなければならないことがある。それは、誰にとってのものとするか、ということである。誰のものでもない形而上学的な【永遠】なのか、それとも一個体のひとにとっての【永遠】なのか。

 比較的に簡単なものから論じてみよう。前者の、誰のものでもない普遍的、形而上学的な【永遠】についてだ。【永遠】とは、終わることがなく、そこにある物質、質量、現象が在り続けることと定義される。ここで【永遠】の意味・定義には自己矛盾が生じる。

 終わることがない、終わらなかった、という事実が観測できるのはいつだろうか。それは観測を終えたときに、ある物質、質量、現象が、観測開始時から変わらずに存続していた、ということを証明したときに他ならない。しかし、【永遠】の定義上、”観測を終えたとき”という時点は存在せず、【永遠】は自らの定義によって自らの存在を証明する手段を喪っしているのである。

 無理にでも、”観測を終えたとき”を作り出すとしたら、現宇宙空間が刹那内に消滅し、あらゆる観測者、現象の有無を規定する世界そのものが同時に無に帰するときの他ないだろう。そしてこの手の矛盾は、全く意味を逆とする”刹那”にも言える。【永遠】と”刹那”は、自己矛盾・形而上学的な意味合いでの観測不可能性という点において、極近しい現象であるのかもしれない。

対象による違い②
一個体にとっての【永遠】について

 さて、もう一つの我々の生活により近い、個人にとっての【永遠】について考えてみよう。このときにも、【永遠】の基本的な定義は同じであろう。
つまり、『ある物質、質量、現象が観測開始時から、観測終了のそのときまで、変わらずに存続する』ということだ。

 先程の、普遍的な【永遠】の場合、観測終了時点というものは存在し得ないとしたが、個人的な【永遠】の場合はどうだろうか。まず、思い浮かぶのは、身体的な生命活動の停止、いわゆる死亡した時点であろう。しかし、これはかなり限定的な観測と言わざるを得ない。なぜなら、ある個人の死亡により観測し得る意識が消失したとしても、世界は変わらずに存続するであろうことが予測され、観測する意識は死亡していない他者も有しているからだ。

 例えば、Aが死亡するそのときまで維持することができた物質、質量、現象(仮に事象Ⅰとする)は、Aにとっての【永遠】とは言える。しかし、観測者Bにとっては、Aの死亡後、Aの不在により事象Ⅰは不履行となり、その時点で事象Ⅰは【永遠】ではなくなる。

 このとき、更に一つの議論が生じる。Aにとっての事象Ⅰは、観測者Bにとって同じ事象足り得るのかということだ。科学的には同一の事象は、同一のものとして扱うべきである。一方で、現象学的には物理的には同一の出来事であっても、体験や解釈によって異なる出来事であると定義する。つまり現象学的には、Aにとっての事象Ⅰは、観測者Bにとっては事象Ⅱであると言える。その場合、事象Ⅰは【永遠】であったと言えるだろうか。答えは否である。

 例え、事象ⅠをAが死亡するまで継続したとしても、『Aの死後、事象Ⅰが発生していない』、という客観的事実はAによる観測とは別に存在するためである。これから、Aという存在と、事象Ⅰの存在は本来的には別個に存在すると言える。よって、一個体の【永遠】は観測者を本人に限定し、さらに観測事象と観測者を同一のものとして扱わない限り、成立し得ないと言える。

【永遠】の持つ自己矛盾と立証不可能性

 これらの考察から、ある暫定的な結論を割り出すことができる。まず、上述のように、【永遠】は終わりを観測できないという自己矛盾、また”終わり”という時点の確定の困難さから、完了の証明は恐らく不可能であるということだ。また一個体にとっての【永遠】は、普遍的なものではなく限定的・限局的な状態及び状況でしかない(例えば対象とする個人の身体的生命活動の停止や現宇宙空間の消失等)。

 さらに、”終わり”という時点が確定できないということは、【永遠】という現象が存在しないということを確定できないことと同義である。論理的な説明は、先述の繰り返しとなるため割愛する。

 これらから、【永遠】は在るとも無いとも言えず、現時点で人類が到達している次元では立証不可能なものであると考えられる。次元とは即ち、1次元(点)、2次元(線)、3次元(空間)、4次元(時間)のことである。この、「4次元では説明することが不可能」ということが、本考察における【永遠】への暫定的な結論である。

【永遠】を証明できないことによって得られる副産物

 本考察による僥倖は二つ挙げられる。一つ目は、恐らく時間的な意味合いの印象が強い【永遠】の存在が、時間を司る4次元では説明し得ないということを示唆できたことである。

 【永遠】を真に説明、立証するにはなんらかの5次元的な要素が必要となり、この5つ目のファクターを理解、言語化することが叶えば、人類は時間という牢獄を抜け出し、新たな世界を切り開くことができるかもしれない。

 そしてもう一つの僥倖は、我々人類がすでに5次元的な要素を内包する【永遠】という言葉を生み出し、運用しているということから、我々は直観的ないしは本能的には、次の次元を感じられている可能性が高いということだ。新たな物質や現象を見つけ出す必要はなく、答えは我らの中にこそ存在する可能性がある。諸君、新世界は思ったよりも目の前に横たわっているかもしれない。これ以上の僥倖があろうはずもない。

 最後に、5つ目の要素への直観的・本能的な感覚を明確に実感するには、さらなる論理的考察、理論的な考察を要するだろう。我々人類は、他の種族と決定的に異なり、ここまでの生物としての繁栄を極めてきた。これは、自らを取り巻く環境や自ら自身への知識・理解を、言語化し、体系化し、それらを共有し活用することによって成し得てきたものだ。

 より深く、理性による明確な理解を手にするためには、言語化のプロセスは不可避である。【永遠】という言葉は、新世界を形どるために、我々人類が理解すべき”依り代”とも言えるのかもしれない。今後の人類の理性の進化を願い、本考察の結びとしたい。

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冬の夜は長いですよね。

お家時間が増えそうなので、いつもとは違った思案や物思いにふけるのも一興です。
良い気分転換やストレス発散にもなるかもしれませんよ。

では、また。

心太

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