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日弁連の憲法委員会における議論

日弁連の憲法委員会における議論を紹介します。
日弁連では一体どんな議論がなされているのだろうか、ということについて、疑問や関心を持っておられるかたが多いようです。 

下記のものは、戦後日本が掲げた日本国憲法の理念を讃える平和主義の立場にたつ闘争的活動家弁護士との「靖国神社」をめぐる議論ですが、彼がつけたタイトルどおり「反戦・平和を顕教」とし、「靖国を密教」とする枠組みに対し、僕が寄せた反論です。
日本国憲法に対する評価と解釈の捻転がいかなるものかについての理解に役にたつかもしれないと思っています。なにか参考になれば幸いです。 

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徳永@大阪です。 

秀逸ですね。「反戦・平和の顕教と靖国という密教」というタイトルのことです。その分岐点にボツダム宣言の受諾を法的革命とする宮沢俊義の八月革命説が掲げられていることについても「さもありなん」と納得しました。 
僕たちは、大学の憲法の講義で「八月革命説」を曲学阿世の法的戯作だと習い、かかる戯論を国のはじまりに置く、我が国の憲法体制の根本にある欠陥を呪ってきました。佐藤幸治が戯作という言葉を使ったわけではありませんが、佐々木惣一が宮沢に対して曲学阿世と面罵したことは歴史的事実として伝わっています。 

京大憲法はこの八月革命説に対する疑問からはじまるといっても過言ではありませんでした。佐藤幸治の批判は、八月革命説とは極端な国際法優位説に立たないと説明できないというものでした。砂川事件最高裁判決が示した憲法優位説によれば、ボツダム宣言の受諾という国際法的行為によって憲法が変更するという効果は導けません。実際、当時の日本政府の法的立場ではそうでしたし、受諾後も美濃部達吉と宮沢俊義はそうした立場に立って、帝国憲法を変更しなくとも、民主的運用によってポツダム宣言の履行は可能だという答申を出していました。佐々木惣一は近衛文麿のブレーンとして憲法改正に取り掛かり天皇に改正案を上奏していますが、近衛の自決によって長く歴史の闇に葬られました。

その佐々木惣一の「八月革命説」批判は、八月革命説はボツダム宣言の「日本国民の自由に表明される意思に基づいて究極的な政治体制を決定する」という文言を根拠にしますが、そこにいう「日本国民」すなわち「Japanese People」は単に「日本人」という意味であり、天皇と対峙する日本臣民の意味ではないというものです。

Japanese Peopleが、天皇を除く「日本国民」なのか、天皇を含む「日本人」なのか。もちろん、政府見解は今も天皇を含む日本人の意味(佐々木惣一はより厳密に「日本国人」という概念を使います)。

それが米国の外交文書であることに照らせば、フランス革命的な王と対立する国民という階級闘争史観的な意味をもたせるのは無理だという常識論に至ると思うのですが、八月革命説を取る学者は、それを知ってか知らずか、かかる解釈をとるわけです。

また、八月革命説は憲法改正限界説に則っていますが、京大の佐々木惣一憲法は、憲法改正無限界説に立っていますので、この点の矛盾もありません(佐藤幸治は形式的な同一性が失われたといいますが、石川健治によれば、佐藤説は実質的な無限界説だとされます)。憲法制定議会において「国体の護持」は最大の論点でしたが、金森徳次郎国務大臣が、佐々木惣一の異議に対し、少なくとも「文化的意味における国体」は揺るがないとして憲法改正が可決されたという歴史的経過を無視することはできないはずです。 

結局、憲法改正によって天皇は戦犯法廷に立つことなく、国体は護持されたというのが歴史的経緯と日本政府の立場であり、国体の護持は本来、「顕教」として扱われるはずなのですが、戦後のマスコミと教育界は、八月革命説という異端の説を「顕教」とするという捻転を来たし、国体は護持されたという歴史的事実が「密教」とされてしまったのです。 

戦後、靖国神社は、「国体を護持」した英霊を顕彰する場となるはずでした。ところが、八月革命説という邪説によって、軍国主義の残滓として扱われるといういわれのない不遇が続いているのです。戦後レジームを脱却するには、この八月革命説を覆すことがが不可欠なのです。 

奇しくも、●●先生の論文には、日中国交50年が記されています。中国に対する評価が、50年前と今とでは180度覆りました。戦争の被害者として立場から、最大の軍事的脅威として捉えられるようになりました。

また、佐々木惣一の「立憲非立憲」が再版され、その系譜にある京大憲法が再評価されるようになりました。 
僕は、靖国という密教が、本来の顕教としての立場を回復するのは、もう間近だと信じています。 
以上  

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