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1人暮らしを始めて

会社から家に帰ると、服を着替え、朝洗い残した皿を洗う。洗い終わると、冷蔵庫から今日使う食材を出してまな板にのせ、今日作ろうとする料理のレシピを再度確認してから、包丁に手を伸ばし、食材を切り始める。忙しない調理作業を終えて、夕食を食べる。
そして、夕食を食べ終えると、皿や調理器具を洗い、洗い終わたところでやっと一息つける。

3月より初めての一人暮らしを始め、そして4月から会社に行き始めてから、このような暮らしがずっと続いている。
まだ慣れない家事は僕にとって自分を煩わせる面倒くさい忙しさでもあれば、自分を律する心地よい忙しさでもある。でもなんだかんだ後者の方が今は上回っている。

料理を作ることが楽しい。少なくとも今はそう思っている。
もちろんまだまだ慣れていないため、レシピを見ながらやる場合が多い。しかし、流石に1ヶ月弱も自炊していると少しずつ自分のオリジナリティ的なものを入れる余裕ができ始める。レシピにない調味料や食材を入れる、調理時間を少しいじってみる。ほんのわずかだが、何か試してみる。
思えば、料理をすることと文章を書くことは似ているかもしれない。例えば今私は日本語でこの文章を書いているが、この日本語は長い歴史の中で先人たちの手によって形成されたもので、私が使っている表現は全て誰かが使った表現である。教育の成果によって、今日我々は先人たちの知恵を借りて文章を書ける。我一方で、私たちはある人の文章を読んで、その人らしいと感じたりする。しかし、その“その人らしさ”も本来はどこかから借りた表現で構成されている。
料理も同様に、最初のうちは誰もがレシピを見て料理をする。そして、上手くなるとレシピを見ずに調理するようになり、少しずつその人の独自性みたいなものが芽生え始める。しかし、僕たちが使ってる食材は自然界にあったものを人の手によって育てられた、もしくは獲られたものだし、調理方法は先人の誰かが考えたものである。つまり、要素ごとに見れば借り物でしかないのに、それを組み合わせる過程で不思議とオリジナリティが浮かび上がるのである。もちろんミシュラン星付きレストランのシェフと僕ではオリジナリティに天と地の差があるのはいうまでもない。しかし、下手くそながら、借り物から少しずつ何か自分独自のものが芽生えるこの料理という営みが私は楽しいのである。

一人暮らしは試行錯誤の連続である。いろんな人にアドバイスを聞いたり、ネットで調べたりしながらも、少しずつ自分のやり方を見つけていく。そして究極的にはそれは自分で自分にとって心地よい空間を作る方法を見つけることである。
私たちは生きていく以上何らかの形で外の世界と関わらなくてはならない。それによって喜びが生まれることもあれば、何か複雑な気持ちを抱えてしまうこともある。もし生きている時間の100%を外との関わりに当てると、私たちは言いようのない疲れを抱えてしまうことになるだろう。外の喧騒から逃れ自分の内側に引きこもることも時には必要である。そして、家はそれにうってつけの場所である。
家では我々は自由に自分の空間をいじられる。もちろん面積の制限はあるし、自分の望む自由が面積の制限を越え始めると、もっと稼いでもっといい家に引っ越したいと思うようになる。しかし、やはり家は比類のない自由を我々が持てる場所である。
エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で人間には自由に不安を感じ、自由よりも隷属状態を好む側面があるとふうに指摘したように、この自由を面倒くさいと感じる人もいる。しかし、この自由は我々を守るものであり、うまく使えば自分の幸せと直結するものでもある。

家事を終えて、ほっと一息つく。しばらくすると、このあと洗濯をしないといけないことを思い出す。しかし、まだ多少の余裕が持てる今は、家事も自分を律する心地よい忙しさとして捉えられる。家事とは義務でもあるものの、自分の空間を自分の手で作れる自由でもある。義務と自由の狭間で、今日も私は暮らしている。

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