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他者が生み出す地獄?! -「人ってこんなにも違うんだ」ということを実感した話



「人ってこんなにも違うんだ」


「人ってこんなにも違うんだ」

今までの会話で数多く出会ってきた相手のあんまりピンときていない顔を思い返しながら(そして相手が見たであろう私のピンときていない表情を想像しながら)、一つのありきたりな結論に辿り着いた…


…今画面の前にいるあなたはきっとピンときてない顔をしているので、もう少し頑張って具体化してみよう。

生きがいをめぐる違いと「命がけの飛躍」


あまりにもいろんな切り口からこの話はできるが、一旦は一つに絞ろう。

人によって生きがいとするもの、もしくは生きる上で原動力とするものは異なる。お金を得ることが重要な人もいれば、権力や地位が何よりも欲しい人もいるし、目標を達成した喜びや高尚な理想への邁進感を得たいという人もいれば、人間関係から得る喜びが何にも増して大切という人もいて、他者からの外的な承認が何よりも大事な人もいれば、自分の好きなものを通じて得られる内的な満足感が生きる上で欠かせない人もいる。もちろん大なり小なり全てを人は求めているであろうが、その程度や優先順位は千差万別である。いや、あまりにも異なっている。

そんなの当たり前じゃんという人もたくさんいるだろう。わかってる。

けれど、あることを知っていることとそれを心から実感していることにはあまりにも大きな隔たりがある。天と地という言葉じゃ表せないくらいある。
人がこんなにも違うということを、当然頭ではわかっていた。
しかし、人がこんなにも違うこと、そしてそれがコミュニケーションを不可能にすることすらあるということに、最近やっと実感を持てるようになった。

「コミュニケーションとは、命がけの飛躍である。」

柄谷行人『探究I』

この言葉は全く大袈裟ではない。

他者が産む地獄とダイバーシティ


もうすこし具体化しよう。

ここまで生きがいや生きる原動力が異なると、ある人にとっては当然の行動や感覚も、異なる人には伝わらない。例えば、外的な承認を気にする人にとっては、SNSに自分の活動を頻繁にあげたり、人から「すごい」と思われるような仕事や活動を選択することはあまりにも普通である。しかし、内的な満足感が大切な人にとっては、自分の趣味に没頭する時間があればそれでいいし、仕事やコミットする活動を選ぶときも自分にとっての楽しさやおもしろさを何よりも優先して選ぶ。

さてこれだけ異なる二つのタイプの人間が会話すると実に奇妙な現象が起きる。片方にとっては当たり前の感覚が、もう片方には全くといっていいほど伝わらないのである。
例えば、内的満足感大事マンがいくら自分の趣味である読書や絵画鑑賞の素晴らしさを語っても、外的な承認大事マンにはピンと来ないだろうし、(よっぽど読書や絵画鑑賞が世間的にステータスが上がるような趣味でない限り)興味すら湧かないだろう。逆に、外的承認大事マンがいくらSNSでいいねを稼ぎたいと言っても、内的満足大事マンは何でそんな下らないことをとしか思えないだろう。

ただの雑談ならまだしも、相談のように相手から何か自分にとって役の立つアドバイスや提案が欲しい会話だと、最悪の場合には無駄だったとしか思えないような時間を過ごすことになる。

両者が対等な関係ならまだ良い。しかし、教師や生徒、上司と部下といった力関係のある関係だと、地獄のような状況が現れる。例えば、自分が面白いと思うような研究をやっているとある大学のとある学部に行きたい高校生がいるとしよう。しかし、大学受験のことはよくわからないし、先生に相談してみた方がいいかもと思い、先生に相談してみる。もしその先生が外的な承認や社会的な地位が何よりも大事と思うようなタイプで、社会におけるステータスとして学歴を身につけることが何よりも優先されると思っていたとしたら、その生徒は自分の考えを否定され、場合によっては深い失望と自己肯定感の低下に苛まれるであろう。

「地獄とは他人のことだ」

サルトル『出口なし』

サルトルが言うまでもなく、我々の身近で地獄はこうも容易に現前するのである。

近頃世間では“ダイバーシティ”なるものの重要性が喧伝されているが、人と人の違いは地獄を生み出すこともある。“ダイバーシティ”を盛んに唱える人の中でそれをちゃんとわかっている人はどれだけいるだろうか。(そして、わかっていることと実感していることの間には大きな隔たりがある)

異なる関数


これまでの話をすこしまとめよう。
人は生きがいや生きる原動力を始め、様々な点で異なっている。
その違いはあまりにも巨大で、内的な満足を重視する人が自分の幸福の源である趣味について語っても外的な承認を専ら至上とする人にとってはその感覚が理解できないように、コミュニケーションを不可能にすることすらある。
そして、場合によっては、例えば自分の好きな研究をしたいという軸で大学を選びたい高校生とそれに猛反発する社会的なステータスとしての学歴を得ることを専ら重視する先生のように、地獄のような状況を生み出すことすらある。

そして、ここでは生きがいや生きる原動力をめぐる違いを取り上げたが、人の違いは様々な切り口から語ることができ、様々な違いからコミュニケーションの不可能性や地獄が生まれうる。

これを、人はそれぞれ異なる関数である、というふうに例えることもできるかもしれない。
同じxを入力しても、数式が違えば、出力されるyは全く異なる。そして、接する部分や交わる部分があるならまだしも、場合によっては全く接することもなければ交わることもない関数もある。
もちろん人は関数ではないし、数式を使って説明し切れる存在ではない(少なくとも今は)。だが、人と人の違いは時として気が遠くなるほど、深い絶望感を抱いてしまうほど、巨大なものである。


普通なんて存在しない

このように考えると「普通」という人口に膾炙した言葉がいかに空虚かがわかる。いや、暴力的とすら言っていい。

先の高校生と教師の例を使えば、その教師にとってはごく当たり前の「普通」な感覚である、社会におけるステータスを上げるためにできる限り学歴は高い方がいいという考えは、その高校生には共有されておらず、両者をめぐる「普通」の感覚の違いは「普通」が普通でないことに両者が気付けないほど大きい(例えその生徒が頭では先生の言わんとすることを理解していたとしてもである。なぜならわかることと実感することには大きな隔たりがあるから)。
もしその生徒が最終的にその先生、もしくは同じことを言ってくる親などの周りの人の言葉に押され、自分が望む方ではない進路に進んだとしよう。例えそれがいくら周りの人が満足し、羨むような進路であったとしても、彼はその後の人生をどこか不本意な形で歩まざるを得ない。(そんなことは人生でありふれているから仕方ないという人もいるかもしれない。それはあくまであなたの「普通」ですよね。)
仮にある日自分の本心に改めて気づき、自分が望む道に戻ったとしても、彼が失った時間は永遠に戻ってこない。

ある人にとっての「普通」はあまりにも普通であるため、本当は「普通」が普通でないことにすら気付かない。だからみんな我が物顔で「普通」を語り、それが時として相手に何も伝わらず、場合によってはその人にとっての地獄を生み出していることにすら気付かない。

「普通」なんてクソくらえだ。


結び:他者というパラドックスと生きる


さて、こんなネガティブなことを延々と書き連ねた文章に一体どんな結びを書けるのだろうか。
でも、どんな文章にも締めは必要。ということで、なんとか振り絞って書いてみよう。

それでも、我々は他者と生きなくてはならない。
もちろん、コンビニでものを買うためだけに会話をかわすコンビニ店員や毎日顔を合わせた時にとりあえず礼儀として挨拶だけを交わすマンションの住人のような、薄い交わりしか持たない他者と、人生の大部分を共にした家族や数多くの苦楽を共にした親友、仲違いした結果憎しみしか持てなくなった昔の友人のように、深い交わりをもつ他者もいる。しかし、濃淡はあれど、他者の存在を我々の生から排除することはできない。
我々の存在は、being(存在)ではなく、co-being(共在)とでも形容する方がより適切であろう。なぜなら共在なしに存在はありえないから。

「他者は最大のパラドックスである。他者は一方で全ての人の利益を制限し、一方で全ての人の生活における意義の源泉でもある」

趙汀陽『坏世界研究;作为第一哲学的政治哲学』(邦訳なし)

我々の利益を制限し、時には地獄を生み出すこともある一方で、我々の生の意義や幸福を生み出す源泉でもある他者と我々は共存しなくてはなたない。
その現実だけは確固として全ての人の生に存在する。

ではいかにそんなパラドックスとしての他者と共存できるか。
古今東西あらゆる人を悩ませ、完璧な答えが見つかることがおそらくはない問いを読者に投げ、本記事を締める。

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