見出し画像

許しの美学

「愛とは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること。_」

そう言ったのは近代看護の創始者であり、「クリミアの天使」とも称されたフローレンス・ナイチンゲールである。
またフランスの思想家ヴォルテールは「私はあなたの意見には反対だが、それを主張する権利は命がけで守る」と言ったとされる。
人に寛容であること、自身の自由の為にも他者の自由を守ること、そしてその器を持つこと。
ポールマッカートニーは「貴方が受け取る愛の量は、貴方が生んだ愛に等しい。」と歌った。
他者を許し認めた分だけ、その寛容さをもって自らが許され認められる。情けは人の為ならず、人を呪わば穴二つ、とはよく言ったものである。

比して我々現代人は如何に排他的で、如何に許さない生物であろうか。特に自身がこうあるべきと掲げる理念に反する意見や、自身が好む何かを否定された時の我々の攻撃的な姿勢たるやレイシスト宛らである。

例えば現政権への糾弾に熱心な者は与党支持者に対し、ごろごろと喉を鳴らし犬歯を剥き出しにして唸っているし、自身が応援する個人/団体に対して批判的な意見を述べる者には睨め付ける様に敵意を向ける。
もっと些末な例をとっても、貧乏揺すりをする者に顳顬を震わせたり、声の五月蝿い者に顔を紅潮させたり、道で少しぶつかっただけで憎悪を募らせたりと忙しない。
ナイチンゲールが現代日本人を見たら、嘸や愛の無い、不寛容な人種と思うことだろう。

無論、倫理的に人道的に考えて怒るべき事態や、違法違憲行為、自身の信念に従って特定の対象に怒ることについては否定しない。然し少し肩が当たったくらいで心拍を高下させるのは、余りにも無益だ。

私は「人の怒り」と言うものには「エッセンシャルな怒り」と「リアクションな怒り」の2種類がある様に思う。エッセンシャルとは必要不可欠の意で、欠かすことの出来ないその人の本質的な怒りを指している。
戦争や差別、女性/子どもへの暴力が許せない等の怒りの類だ。己が信ずる正義や思想に基づくエッセンシャルな怒りは、その人そのものであり存分に怒れば良いと思う。最愛の家族や恋人が傷つけられてもヘラヘラしていられる方が問題だろう。

他方、リアクションな怒りとは、本質的でなく条件反射で生じる怒りの全てを指している。
エッセンシャルな怒りが「事象」に対し「思考」を経て「怒り」が発現するのに対し、リアクションな怒りは、事象→怒り→思考の順路を歩む。ぶつかられた/貧乏揺すりを見た/五月蝿い声を聞いた後に熟考してから怒りが込み上げることはそうあるまい。
そして誰しもに上記のようなリアクションな怒りの対象がある筈だ。例を挙げればキリが無いのだが、人の悪口ばかり言う/正論並べているだけ/気障な物言い/靴音が大きい/空気が読めない/距離感が近過ぎる等々だ。

一つ具体例を挙げてみよう。想像してみて欲しい、此処は一人の男が仲の良い友人達と居酒屋で団欒している一場面だ。気の置けない仲間との他愛ない談笑を愉しんで居たら、隣の席の客がとても大きな声で騒ぎ始めた。声が余りにも大きいため卓内での会話が聞こえ難くなった、と言うシーンだ。
同じ席の友人達は内心煩わしく思いながらも微笑みながら盃を酌み交わしている。然し男は顔を赤らめ苛立ち始めた。暫くして隣の客たちは帰路へ着いたが、直後男は激昂した。
「なんなんだ彼奴らは!五月蝿いにも程があるだろ!ゴミクズが!おい店長!なんであんな客を黙認しているのだ、店の民度が下がるぞ!」と言った塩梅だ。

ここまで苛烈に怒るか、程度の話は抜きにしても想像に難くはないだろう。そしてこの怒りは百害有/一利無である。
たかだか騒がしかったと言うだけで、顔を真っ赤にして怒るなどなんと器の狭い男だろう、と友人は引いたかも知れないし、軽蔑の目を向けたかも知れない。店長も何故貴様に民度を語られにゃならぬのだと憤ったやも知れない。仮に怒りの勢いがこの男の1/3程度であったとしても、友情や信頼や尊敬を損なうベクトルは同じ向きである。
男と同調してそうだそうだと皆で猛る可能性もあるが、そうだったとしても得は何もない。

抑もネガティブな感情で心を満たすことは、健康を損なうことに直結する。病は気からと言う言葉は迷信ではなく、ストレスの蓄積や、イライラとする感情の起伏によって齎される不健康は科学的にも明らかだ。

そして重要なのはリアクションな怒りの対象は、殆どが大して悪ではないと言う点だ。
無論静謐さが求められる場面での五月蠅さは幾らか問題もあろうが、根本的に大きな声を発すると言うのはその人の表現の自由であり、我々には声を張り上げる権利が保障されている。(迷惑防止条例等に抵触する様な場合を除いて)ましてや場面は酒場である。

時々「中国人は五月蝿いから嫌い」と言ったことを口にする者が居るが、中国人の声が大きいのは一言で文化の違いである。
中国では日本と違い、小さな声でうじうじとすることは悪く、大きな声ではっきりと自らの意思を表明することこそが美徳とされている文化があり、彼らにとって声が大きいことはある種の善行とも言える。
また常識的に五月蝿くしてはいけないとは言っても、では何dbまでがOKで何dbからがOUTなのか明確な線引きを持っている者は居ないだろう。あったとて独善的な基準だ。
鼓膜が破れる訳でもあるまい、五月蝿い者にイライラするのは不合理である。迷惑に思うのは当然であるし、なれば理知的に店員に注意を促すなどが妥当だろう。

他の例も同様である。貧乏揺すりなど最早何が悪なのかまるで不明であるし、我々には手足を自由に動かす権利がある。正論を並べるのも悪でないし、距離感やKY度合いなども主観的な基準だ。
上記に挙げた例の中では、人の悪口ばかり言うが悪に見えそうだが、一概にそうとも言えない。第三者への過激な誹謗中傷は侮辱罪となろうが、発した悪口が「貴方ともっと仲良くなりたいが為の他者イジリトーク」であったなら取る立場は変わるであろう。

リアクションな怒りの対象とは、疑いようのない悪ではなく、主観的で独善的な判断に基づく悪であり、それに怒っても得は何もない。
そうは言っても腹が立つものは仕方がない、それが私なのだと思う者も居るかも知れないが、そんなものは貴方の本質では全くない。
では何故腹が立つのか、怒りの源泉が何処にあるかと言えば、それは間違いなく貴方の過去にある。

周りの人に配慮して静かにして居なさいと強く躾けられた子は、五月蝿い人が許せないし、
なんと落ち着きがないことかじっとして居なさい、であれば貧乏揺すりが癪に触るだろうし、
周囲への配慮や気配りを重んじ体得してきた者は、空気を読まないものを蔑視する。

自らが学び、斯くあるべしと信じてきたことに反するものに我々はアレルギー反応を起こすが如くリアクションな怒りを発現させるのだ。その様に思う。

イライラとする感情を自己に発見したら一度、エッセンシャルかリアクションかを分類してみて欲しい。まず間違いなくリアクションであることが大半だ。そしてそれに対して熱心に怒りを注ぐことは実に無益であり、許容したところで得はあっても損はない。



「愛とは、その人の過ちや自分との意見の対立を許してあげられること。」



読者諸賢が愛に満ち、その毛細血管を大切にした人生を謳歌することを願うばかりである。
今月今宵のお戯れはこれまで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?