変わるマチの変わらない良さ(下北線路街の配信を終えて)
「シモキタは変わったよ・・・」
今は酒類提供が禁止されており、飲み屋で隣の”オヤジ”たちがそう嘆く声を聞くことはなくなってしまったのが、やけに寂しいのだ。
少なくとも東京23区であれば、どのマチも変わっていくのは当然であろう。
なぜなら、そこに集うヒトも変わり、建物はいつか崩れ、そこで取り扱われるモノも変わるからだ。
マチは博物館ではない。ましてや東京23区(だけではなく都市)であれば、ヒトの出入りは多かれ少なかれあり、時間の経過とともに移ろいゆくものだ。
マチは変わって当然なのだ。
それでもなお、「シモキタは変わったよ・・・」というオヤジたちがいて、それを受け入れる土壌のあるマチということに、私は喜びを感じる。
確かに、シモキタは全国区になり、昭和のシモキタを知っている世代からしたら、”危うさ”はなくなったかもしれない。
ただ、そんな現象はどのマチにもあり、平成以降の”キレイさ”に適応できないマチはたいてい廃れいる。
決してシモキタだけが変わったのではないのに、そう言わせたくなるのはなぜか。それは、それぞれシモキタというマチにそれぞれの理想を持っているからだ。
そしてそのそれぞれの理想を受け入れ、肯定するという部分にシモキタの本質があるのだと思う。
「自分の好みは誰にも共感されないのかもしれない。」「ここにはこの曲の良さをわかるやつはいねえ」そう思って、シモキタに来たマチの異端者を肯定する”広さ”がこのマチにはあるのだ。
全国の異端者の共感が積り、このマチではそれが普通になる。その繰り返しが、このマチの規範となり、理想となるのだ。
だから私は、「シモキタは変わったよ・・・」という声に対して嬉しさを感じる。
このマチにはこれからも変わらず、この声を聞かせてほしいのだ。 (K.T)
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