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不定期日記。2023-01-15

 つい先日、復帰をお祈りすると書いたばかり(奇しくも亡くなった当日に書いていた)で今朝、飛び込んで来た幸宏の訃報。
 昨年6月にTwitterが更新されて、次はいつ更新されるかと待ち続けていたが、叶わず。
 ご冥福をお祈りしつつ、こんな機会なので単なる一ファンであった自分の思い出話を書き残しておきたい。

 1979年に「ソリッドステイトサバイバー」がリリースされて、イエローマジックオーケストラは社会現象になった。
 私の場合は、80年、小6の時に彼らの存在を何となく知って気になり、多分一番最初にしっかり聴いたのはAMラジオで流された海外公演の音源だったと思う。その前後でライディーンのシングルヒットがあり、80年のロンドン公演そして年末の武道館公演が、FMラジオそしてフジテレビで流されたあたりが、一般向けとしては一番ピークだった頃と思う。姉もファンで、武道館公演を録画するためにSONYのベータのビデオデッキを買ったほどだった。いとこからは教授のソロなんかをカセットにダビングしてもらったし、そのいとこの家にはRolandのTB-03もあった。小学校のクラスメイトはファーストのカセットを万引きしていた。というくらい、周りもファンだったわけだ。この時期、父親にYMOのファーストのレコードを買ってもらった話は、以前別のnoteに書いた。
 ワールドツアーを終えて日本に戻ったYMOは、すっかり人気者になって気楽に外も出歩けなくなっていた。ワールドツアーの様子を収めた写真集「OMIYAGE」の予約者向けにパルコの紀伊國屋で(いや、山野楽器だったかな?)アイドル並みの握手会が実施され、そこにも私のような小中学生を含むファンが沢山いたのだ。ちなみに私が握手してもらったのは、勿論幸宏だ。
 その「OMIYAGE」に先行で歌詞カードが掲載されて(そしてアルバム本体には歌詞カードは添付されなかった)、期待の中リリースされたアルバム「BGM」は、それまでと全く趣を変え、当時のイギリスのニューウェーブを意識した「暗い」音楽で、まんまとライトなファンは去っていく事になったのだが、そういった姿勢や当時のアートワークに現れていた「先鋭的な」センスを嗅ぎ取ったキッズたちは、そこで離れることなく、彼らについて行った。自分もそういうキッズのひとりであったわけだ。

 YMOの活動と同時に、幸宏はBRICKS MONOというファッションブランドを運営していた。幸宏のファッションは当時から、子供の私にもとにかくオシャレでカッコよく見えた。
 私はずっといとこのお下がりを着せられたりしていたのだが、小6の時に、ゴルフズボンみたいなパンツを履かされ、それがすごくカッコ悪くて母親に滅茶苦茶文句を言ったのを覚えている。その辺りをきっかけに、中学に上がる頃には年の離れた姉が就職していたので、姉に服を買ってもらうようになった。最初に買ってもらったのは、イクシーズのカーキ色のパンツと、今でいうビッグシルエットのセーターだった気がする。
 それで81年当時、札幌のパルコにBRICKS MONOの洋服を置いている店があり(どの店だったかはさすがに記憶がない)、姉に3枚くらい服を買ってもらった。ちょっとフィフティーズっぽいデザインの綿のカーディガンと、ピンクのTシャツ、そして細身のカーキのパンツ。高かったと思うが、買ってもらえて本当に嬉しかったし、本当にカッコよくて、擦り切れるまで着た。子供だったので、店にもしかしたら幸宏が居たりするのかと思ったが、さすがに札幌の地でそれはなかった。だがそのフロアで松山千春は見かけたことがある(笑)

 最初のYMO関連のコンサート体験は、81年暮のウィンターツアー、札幌厚生年金会館。それから82年の幸宏のソロツアー。その時代、幸宏以下のメンバーがよく着ていたのが、ストライプのズートスーツにサスペンダーというセットアップで、これも似たような服を4丁目プラザの流行屋JAPANで、小遣いで買ったものだ。しかし当時私はバスケ部で頭は丸刈りだったので、何だか異様な感じだった。今だったらスキンズっぽくて恰好いいかも知れないが。
 最後に観たのは83年の散開ツアー、札幌公演。その後YENレーベルくらいまでは彼らを追いかけていたが、そこからは彼らに教わったと言ってもいいイギリスのニューウェーブに夢中になり、YMOの音楽は卒業した。けれども80年から83年頃までの、彼らの「我が道を行く」態度は、確実に私のDNAに刷り込まれたし、未だにオシャレおじさんと周りにはよく言われ続けている(ダンディではないが)のは、完全に幸宏の影響だと思っている。

 というわけで、決してミュージシャンだけに限らず、彼らの影響を受けて育った五十代というのは、恐らく沢山いるはずで、そういう人たちは、多分私と同程度には、未だに生きづらさを引きずりながら過ごしているんじゃないかな、と思ってしまったりする。それでも多分、我が道を行く面白さも大いに感じているはずだ。そして私と同じように、とても大きな喪失感を今、味わっていることだろう。

P. S.
 YMOは83年に「散開」という名目で解散した後、10年後に「再生」という名目でアルバム1枚と東京ドーム2daysのライブをやっている。この再結成はビジネス要因が多かったようで、特に細野さんがとても前向きでなかった。一方教授は「セカイのサカモト」みたいになってた時期で、そういうモードの違いもあったのか、そのタイミングでリリースされたニューアルバムそしてそれをセットリストの中心に据えたライブは、東京ドームという大観衆の前で殆どお通夜状態の、ワールドツアー後の「BGM」以上に期待を裏切る構成であった(というのが友人の弁で、当時まだ札幌で暮らしていた私は海の向こうの話としてスルーしていた)。
 その中で演奏された数少ない過去曲では観客も異常な盛り上がりを見せたが、やってる当人たちも結局楽しそうで、やっぱりひねくれていたグループであった。下記映像、特に7:30で「中国女」の途中に教授が、セットリストにはなかった「コズミックサーフィン」のワンフレーズをアドリブで挟み込むと、3人とも笑顔になっているシーンがなんとも最高だ。
 いったんステージに上がってしまえば、こんな風に楽しそうに出来るミラクルな関係。そして右を向いても左を向いても笑顔の幸宏は、やはり、ムードメーカーとして本当に最高な方であったと思う。

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