教育改革を改革する③

(前回の続きです。今回も寺田拓真さんの著書『教育改革を改革する』から引用を中心に。)
教育改革を巡る議論というのは、「片方が正しくて片方が誤り」というシンプルなものではなくて、「人生観」を含む議論なので、どっちも正当性を持っていて、教育の舵取りを任せるには、どちらの側にも同じぐらいの危険性があるということなのです。

寺田さんは、「だからこそ、子どもたちが教育の舵取りを担うべき」と考えています。
「これまでの人生」よりも、「これからの人生」を見ている子どもたちこそ、最も的確な判断を下せる可能性があります。
大人の唯一にして最大の役割は、過去の人生にしがみつくことではなくて、これからの子どもたちの世界を広げることです。
この共通のゴールに向けて、立場を超えて大人たちの力を結集することができれば、誰かの人生を否定し、教育改革などというものを強引に進めなくても、結果として、教育は「自然に」変わっていくと思うのです。

教育行政は、教師のことを単なる「問題点」、言い換えれば教育改革を実現する上での「障害物」と見るのではなく、ともに力を合わせて取り組む「パートナー」としていかない限り、教育改革を実現することはできないのです。

当たり前のことですが、教育改革者だけでは、教育改革は実現できません。極めて強引に教育改革を断行すれば、「面従腹背」で教育改革は進むかもしれません。でもそれは、教育改革が進んでいるように見えているだけ。教師の間では、きっと次のような会話が行われていることでしょう。「とりあえず、彼に説明ができる、最低限の材料だけはそろえておこう」。苦笑いとともに。
これでは何の意味もありません。(表面上の)改革が行われているのは、教育改革者が在任している期間だけ。過去の失敗した教育改革と何ら変わらず、「学校現場のリアリティからかけ離れていて、教師を振り回すだけのもの」でしかありません。

もちろん一日でも早く、夢とビジョンを実現したい。では、その成否を握る教師に対して、どのように関わっていくべきなのか。変わるのを待つのか、待たないのか。寺田さんの考えは、そのどちらでもなくて、「変わるためのリソースを、最大限投入する」です。教師が変わりたいと思えるかどうか、そして教師が変われるかどうかは、教師の側だけの問題ではありません。むしろ、教育行政と教師がともに力を合わせて取り組むべきものです。だから、もし変われない教師がいたとしたら、それは教育行政が力不足だということ。「変われない教師は退場させてやる」ではなくて、「退場しなくてはいけない教師を限りなくゼロに近付ける」にチャレンジしていきたい。そしてそれに一人で取り組むのではく、教育行政のスタッフや学校の管理職と力を合わせて取り組んでいきたい。そんな教育行政の文化、学校の文化を構築していきたいのです。
(このあたりの話は『月刊高校教育』1月号の妹尾さんの記事に出てくる「燃料」と「抵抗」の話を合わせて考えるといいのかもしれません)

多くの学校の「学校文化」は、「現状にある大きな問題には目をつぶるくせに、何かを動かすことによって生じる小さな不整合に過剰に反応する文化」と言えます。もっと簡単に言えば「前例踏襲」と「横並び」の文化。現状学校の中にある「大きな不公平」は見て見ぬフリをするくせに、何かを動かすことによって生まれる「小さな不均一」は、徹底的に潰そうとする。たとえそれが「大きな不公平」を減らそうとするチャレンジであっても。そうした「動かさない文化」が、多くの学校の根底にあるのです。
この「学校の存続に関連する外部からの脅威」「組織の団結に関わるような問題」の一つが、教育改革であると言えます。すなわち、現場発ではない、外部主導の教育改革が「流星群」のように降り続け、そしてそれらに対する「防衛」が成功するごとに、学校文化はより強固になっていったのです。こうした経緯に照らせば、多くの学校の文化が「動かさない文化」であることに合点がいくとともに、校則改革はもちろんのこと、学校文化の改革をターゲットにした、教育行政によるトップダウンの改革が成功しないのは、火を見るより明らかでしょう。

必要なのは、トップダウンの教育改革ではなく、ボトムアップの実践改善なのです。(多分続きます)

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