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題:坂口安吾著 「白痴」を読んで

確かに読める、読めない作家が多い中で確かに最後まで本書は読める。ただ、何篇か読むと、同じ内容で飽きがくる。こういう作家の評価は難しい。本書は七つの短編を集めたものである。ほほ同じ時期に書いたものであるらしい。「いずこへ」は女を所有し、その女の従妹やスタンドの女と関係しながら、自分はどこに行くのだろうと嘆息する男の話である。「白痴」は自らの押し入れに入り込んだ白痴女との生活と空襲時の逃走の話である。一番良い作品である。「母の上京」はお好み屋の母娘や女として生きている男との関係が記述されている、この女として生きている男は母に会いたくない。でも思わぬ他者との争いによって、母の待つ部屋に転がり込んでしまうのである。「外套と青空」はある男の妾に招かれる、外套を脱がないこの女を抱き締め情熱的に関係する、青空の下でも外套を着ている時と同様に熱く情交する話である。 

「私は海をだきしめていたい」は不感症の女と海に行くと、海に女が飲み込まれていく幻覚に襲われる、海と言う巨大な肉体を見るのである。「戦争と一人の女」は夜の空襲が始まってから被害の大きさに逆にもう戦争を憎まなくなる多淫な女がいる。この女が複数の男に言い寄られながらも、一人の男と一緒になって空襲時の惨禍を逃れる話である。珍しく女が主人公であるが、文体は男そのものである。「青鬼の褌を洗う女」はさまざまな男に言い寄られながら、高年の専務の妾となり暮らす女の話である。この女の相撲の関取との浮気や処女を守り通す女と男の話などを含めている。結局、女は夜這いをかけてくるのが鬼であっても一緒に居たいと思っている。鬼なる男に媚びながら生きたいと願っているのである。こう思いながら専務の寝顔を優しく女は見詰めている。 

福田恆存が坂口安吾は私小説の処世術を打破したいと願い、感傷を排除した観念小説を書いている、観念と現実のギャップがあることが彼に小説を書かせていると述べている。彼の述べる観念小説の意味が分からずに、観念小説とは、もっと違った小説に用いるべきであり彼の言い分は放置したい。ただ、私小説から脱却した現実の生活上の観念はある。また、夢想と現実の差がはなはだしくて、坂口安吾をロマンチスト評している。これもたぶん異なっているであろう。一見そう見えるが坂口安吾がそう装っているだけで、女の肉体を突き抜けた向こう側に、夢や理想や花咲く乙女や文学的に至高な魂の境地を求めているわけではない。むしろ、この世界に物質的な肉体が在ることを認めている現実主義者なのである。肉体が他者なる男と女を結び付けて現実に生き続けることを、生き続けなければならないことを明確に自覚し、そして実行している現実の肯定者なのである。戦後の闇屋上がりの強烈な生のダイナニズムを保有して、他者を含めた生の肯定者なのである。 

この肯定者は狂気も自殺も淫売や殺略さえ、ロマンさえも生の一部として飲み込んでいる大きな器であり、生命のダイナニズムそのものの内に生きている。魂などなくて交接する肉体だけを保有している女たちも、この物質的な肉体を保有するが故に彼と共に生きていける。肉体は神秘でもなくて下劣でもなない、現実に生きていく故での確固たる位置を確保しているのである。坂口安吾が魂と声高に叫ぶのを間違えて捕らえてはいけない。彼は魂を信じていないし、かつ肉体へ欲情だけを求めているのでもない。うがった見方をすれば、肉体を含めて更に魂さえ含めて肯定しようとしている。こうした考えをまとめるには「堕落論」を読んでみなければならないが、まだ読んでいないために仮の考えにしておきたい。こうした考え方は、肉体のイメージが強烈であるために見逃しやすいが、モーリス・メルロ=ポンティの「心身の合一」の思想の入り口の見える近くまで坂口安吾がやって来ていることを示している。更に坂口安吾には肉体が示す他者との共存関係がある。この話は後にて示したい。 

坂口安吾のこうした文筆生活の源の思想を以上のように理解しても、彼の作品の質が高いという保証を与えない。むしろ、作品の質は並であってそれ以上でも以下でもない。文章力が特に優れているわけでもない、少し長ったらしくて冗長気味であり、呆れ返るほどの詩的さを欠いた、緊密さを欠いた散文である。そして、どれもが同じ内容の作品に思われる。無論同じ時期に書いたためにそうなったとしても、テーマを変えることができなくとも、もう少しバリエーションを与えても良かったのではないか。これは坂口安吾の作家としての感性の間口の狭さを如実に示している。女を海に変えても、ただ文字面を海に変えただけで、波の音や磯の香りがしないのが残念である。これは感性の間口の狭さよりも描写力の欠如に起因するのかもしれない。「白痴」における焼夷弾に焼かれた街並みや死体の描写も、それなりの生々しさが迫ってくるが、緊迫感も押し寄せてくるが、焼死体をどうしても見に行くという登場人物の執念を目のあたりにすると、この執念には驚くけれども、描写力はこの執念より劣っていると思われる。 

こうした欠点を補って余りあるのが他者との関係である。「白痴」における文章を引用したい。『伊沢は米軍が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹き飛び、頭上に米機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙と崩れたビルと穴の間を転げ回って逃げている自分と女のことを考えていた。崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押しえつけられて、男は女をねじ倒して、肉体の行為に耽りながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。女の肉はだんだんと少なくなるが、女は肉欲のことを考えているだけだった。・・女が眠りこけているうちに女を置いて立ち去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。・・明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何かの希望があるだろうか。・・夜が白んできたら、女を起こして焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた』 

この文章を読むとある種の哀切を感じる。女と一緒に行こうと考えるのは捨て去ることが面倒なためではない。希望を持てる保証がないためでもない。肉欲のみを考える女の尻の肉が食えなくなるためでもない。この女ではない別の女の肉を食べることもできるのである。それでも伊沢はこの女と一緒に行こうと考えている。安吾がいくら稚拙に否定の文章を並べよとも、この行為は伊沢の女への愛着のためであると考えるのが自然である。それは安吾が否定しようとする精神そのものが成させる他者への愛なる関係である。即ち、福田恆存が否定した感傷であり哀切なのである。こうした他者との関係を示した一文を見ると、坂口安吾は他者との共存の思想の持ち主であると言うことができるだろう。この他者との共存関係は男であっても本書内に見出され得る。 

以上

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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。