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題:ホルクハイマー、アドルノ著 徳永恂訳「啓蒙の弁証法 哲学的断片」を読んで

一度難しくて途中で読むのを止めた本である。文章がとても分かりにくかった。でも、さらっと読み流すと、それほど難しいことが書いてあるわけではなく、思想の骨幹は明瞭であり、むしろ、その論じ方、即ち論理的展開に疑問を感じる。それほど重要ではない本である。でも、思想の骨幹が割りと共感できて、少しばかり気になった。なお、「啓蒙」ということばは「文化」とでも言い換えれば良い。文化、文明化が進展してくると、人類はどうなっていくかと言うことを論じている本である。論じ方はベーコンの弁証法にならい「否定的弁証法」を用いている。いわば、神話と啓蒙との弁証法であり、神話的自然と啓蒙された自然支配の差別と統一を浮き彫りにさせるために用いる手法である。なお、本著作物は、ホルクハイマーとアドルノの共著である。それぞれに分担があるが、互いに修正を入れるなどして密な関係である。ただ、どうも思想的にはアドルノの方が主導していたようである。なお、『 』は本書からの引用文である。

本書の目次は次のようなものである。


序文
Ⅰ 啓蒙の概念
Ⅱ オデュッセウスあるいは神話と啓蒙
Ⅲ ジュリエットあるいは啓蒙と道徳
Ⅳ 文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙
Ⅴ 反ユダヤ主義の要素――啓蒙の限界
Ⅵ 手記と草案

各章の内容を簡単に説明する。「序文」を読めば、本書の内容は一目瞭然となる。科学的な発明など文明の進展に従って『何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の野蛮な状態へ落ち込んでいくのか』とう問いから発している。そのために、この問いに含まれるアプリオこそが究明すべきこととなる。「啓蒙の自己崩壊」、「啓蒙の思想そのものが含んでいる退行への萌芽」、「民族主義的な偏執狂への大衆の自己破壊的な雷同」などである。これは啓蒙が神話へと逆行していく原因を、啓蒙そのものに求めなければならないとする次の考え方が根本にある。即ち『個々の人間は経済的諸力の前には完全に無力であることを宣言される。その際経済的諸力は、自然に対する社会の強制力を想像を絶する高さまで押し上げる。個々人は自分が仕える機構の前に消失する一方、前よりいっそうよくこの機構によって扶養されることになる』のである。こうして『精神が固定化されて文化財となり消費目的に引き渡されるところでは、精神は消失せざるをえない。繊細な情報とどぎつい娯楽の氾濫は、人間を利口であると同時に白痴化する』のである。

更に『大量の財は、社会的主体を欠くために、これまでの時代には国内経済の危機に際していわゆる過剰生産という結果をもたらしたとすれば、今日ではそれは、権力集団がそういう社会的主体の地位に就くことによって、ファッシズムによる国際的脅威を生み出す。進歩は退歩に逆転する』こうして形而上学が現実の害悪を背後に押し隠す時にこそ、見逃すわけにはいかず、考察はこの点から出発させると著者は強調する。「啓蒙の概念」では神話が啓蒙であり、啓蒙は神話に退化する二つのテーゼから論じことができると述べている。「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」では神話と啓蒙の弁証法を論じている。「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」では『あらゆる自然的なものを自己支配的主体の下へ隷属させることが、いかにしてついにはほかならぬ盲目の客体的なもの、自然的なものによる支配において極まるかが示される』と述べている。「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」では、文化産業とイデオロギーの位置について論じている。「反ユダヤ主義の要素――啓蒙の限界」では、啓蒙された文明が現実には未開・野蛮へと復帰されることを取り扱うのであると述べている。

こうした「序文」で示されている内容が各章にて記述されているが、論旨は以上のごとくであり、読むには忍耐を必要とする。文章が難解なのか、乾燥していて面白みがないのか、説明が我田引水的なのか良く分からないけれど、「啓蒙の概念」と「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」までは良いが、その後はとにかくあまり読む気が起こらない、さらっと流し読みしただけである。「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」では、カントとニーチェとサドについ啓蒙と道徳のことを論じている。ニーチェは自らに都合の良い文章のみを引用していて、著者はニーチェそのものを理解していないと思われる。

ジュリエットは『ジュリエットが体現しているのは、心理学の用語で言う、昇華されないリビドーでも、退行したリビドーでもなくて、退行への知的喜び、神への知的愛ならぬ悪魔への知的愛、つまり文明それ自身の武器を逆手にとって撃つという快楽である。彼女は体系と一貫性を愛する』という、たぶん的を得ない短文で示されている。カントについては「純正理性批判」に基づいた理性などについて一番多く述べられている。『サドの作品は、ニーチェのそれと同じく、実践理性に対する仮借のない批判を形づくっており・・』など、詳細は省略するが、著者の主張しようとする点は分かるけれど納得できるものではない。

いずれにせよ、神話もしくは伝統と現実との関係を論じる本書のテーマは壮大であって、現在においてさえ重い課題であるといえる。ただ、著者と同じ発想と手法によって論じるか、はたまた別の観点から、例えば経済学的な発想に重きを置いて論じることも可能であり、検討が必要である。また、文明が進むにしたがって野蛮と暴力に退行するかについても、著者の主張は重要なことにきっと正しいが、更なる研究が必要である。結論として、著者のテーマはとても関心を引くけれども、著者はある種の曲解を含んでいると思われてしかたがない。哲学や科学というより、経済学的な観点を主にして哲学や科学を含んで論じるのが一番良いと思われる。

以上

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読書感想文

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。