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「三千代との愛」(短編集その3)より引用

「あなたは思い余って、最後には私を殺したんではないですか」と三千代は代助を真っすぐ見ながら言う。
「嘘だ」と代助は断言する。
彼は三千代を見てはいない。正視するに耐えがたいためか、横のグラスコップを見ている。今しがた彼が水を飲んでいたコップである。三千代はそのコップを握り締め花瓶の水を注ぎ入れる。そしてうまそうに一気に飲む。上気した顔の濡れた唇を手の甲で拭いながら代助を見て言う。


「あら、嘘じゃありませんことよ。本当なんです。私はあなたに殺されたんです。玩具にされて捨てられて死んだのです。苦しい、苦しいからもう生きるのを止めたのです。その私がどうなったのか、どんな男に捧げものとして渡されたのかを私は知らない。死んで暮らしていたから、知ることなど何もなかったのです。ただ首に食い込んでくるあなたの指と悲しくも喜びでもあるあなたの声だけを覚えているのです」


 そう言われて代助は思い出した。彼は三千代の落ち着きながら、くっきりと弾む声のリズムと柔らかくて溶けそうな白い肌が好きであった。純粋なお嬢さんでもあり活発な女でもある三千代を彼は好きであった。でも、結局捨てたのである。三千代は代助の前では幾分恥じらいながらも愛を含めて、心の思いを隠すことなく述べていた。ただ世の中では長く関係を持続させることができない、三千代の兄が死に二人で会うと、話すことがなくなり代助には面倒になることもあった。逢瀬を重ねるうちに三千代に飽いてきたのである。こうして長い年月を経て再び会うからには、初めて会話を行うように心をときめかせ、新しい恋に心を燃え立たせるように新しい関係性を築きたい、あの当時の若々しい日常を取り戻したいと代助は願っている。


「心からあなたを愛していたのです。でも職を持たない私はあなたを食べさせていくことができない。ですからあなたに一番似合いの男を紹介してあげたのです。あなたは真面目に考えて結婚も決断してくれた」
三千代は代助の目を凝視している。一つの言葉も逃さないのではない、視線の背後に隠れている心の動きの一つも逃さないように見ている。恋人だった代助に三千代は執着しているわけではない。ただ彼の心の動きの一瞬の内に表れるどんな細かな真実も捕らえたいと思っている。でもそれほど拘泥をしていないことも確かである。代助の真実など分かり切っていて、いまさら彼の心など掴み直さなくとも良い。むしろ代助の困った表情とその言い訳を聞きたい。真実を偽装している心がどう表されるのか、真実っぽく言い訳するその表情と言い草を楽しみたいのである。でも自らへの愛の真実が述べられているなら、そんな気もするけれど、それならどう対応すればよいのか。


端的に言えば、こうした三千代の心の動きは自らの代助への愛の深さを推し量りたいためである。代助の彼女への思いの真摯さを知りたい。なぜなら彼は再び会うとよりを戻したいと迫ってくる。昔の馴染みな二人の関係性ではなくて、新しい生活を共に送る夫婦としての関係性を願っている。つまり縁りを戻したいと願っている彼の心の本気度を知りたいのである。真に潔癖に世渡りしているわけではないし、人妻であっても三千代は代助が好きであって、おおまかには認めようと心は既に動いている、代助の言い分を認めてあげてもいいけれど、以前に捨てられた恋人の言い分を、素直に聞き入れるほど三千代は愚かではない。


 「あなたは私を捨てたのよ。嫌になったから他の男にあげたのよ。それだけでしょう。でももう何年も経ってどうしてまた縁りを戻そうと言うの、私をなぜ欲しがるのでしょう。私を殺したことに罪を感じているのかしら。首を絞めて殺した女を、また殺したいと思っているのかしら。手で絞められれば嬌声でも嗚咽でもなく顔を歪ませて、呻吟する声だけが吐き出されるのよ。あの世に行く声だわ。生を離脱する静かな祈りの声ではなくて、むしろ顔を振って喚いている罵声のようなものだわ。静かに可愛らしく振る舞うことができやしなくなった女の末路の声なのよ。あなたは私にこの末路を何度も経験させた。そんなことを許す女がどこにも居るはずなどない。だからまた私に狙いをつけたのね」
 「僕はあなたを愛している、とても愛しているのです。鼓動が強く鳴り響いてあなたを切なく求めている。目覚めた時にまずあなたのことを思って、どうしているかと知らぬうちに問い掛けている私がいるのです。だからお願いだから縁りを戻して欲しい。僕にはあなたがぜひとも必要なんだ」


代助はそっと三千代の顔を窺っている。真剣そのものである。
「もう私は昔の私ではないかもしれないわ。それでもいいのかしら」
 三千代は首を傾げながら代助を見た。その艶のある瞳が代助の心を奮い立たせた。どうしても彼女と一緒に暮らさなければならない。彼女をもう手放してはいけない。もはや生きがいである。代助は三千代の手を取って自らの胸に押し当てた。高鳴る鼓動を聞かせるためである。三千代は確かに布地を通して響く代助の鼓動を愛おしそうに聞いている。ただ、布地は肌を遮断する、鼓動を聞いていると錯覚しているとも思われる。三千代はゆっくりと畳の上に座る。自然の成り行きとも言え、代助もつられて真向かいに座る。それから二人はゆっくりと畳の上に体を伸ばして横に並んで、茶色い古ぼけた天井を見ている。


「私たちが愛し合った当時を思い出すわ。ひどく人の目を気に掛け隠れるようにあなたは歩いた。私も小さくなって体を丸めるように歩いた。少しでも隠れようと離れて歩いていた、あなたは時々振り返って私が居るか確かめた。不安だったのでしょう。私があなたを愛していると知っていても、ついてくるかどうか不安で仕方がなかった。どうしてだか教えてあげましょうか。私が強く愛していることに満足していながら、一方ではあなたは私から逃れられなくなるのを恐れたいた。むしろ、私のあなたへの愛が薄まることを願っていたのです。この愛の希薄化はあなたの自尊心を傷つけることになる、認められることなどない。何と身勝手なのでしょう。あなたは私一人だけを愛していたわけではなかった。もっと自由に幾人もの女を私に咎められることなく愛していながら、私を何とか繋ぎ止めておきたかったのが本心でしょう」


 三千代は代助の手を握った。黒くて真摯な瞳が代助をじっと見詰めている。問い詰めるのではない、愛おしそうに優しく見詰めている。
「さあ、私の胸に手を当てて高鳴る鼓動を確かめて下さい。あなたの手は規則正しい鼓動を通じて、昔からの私の変わりない愛を感じ取ることができます」
 そういうと三千代は代助の手を自らの胸に引き寄せ、合わせ目からその手を自らの肌に直に触れさせた。暖かくはなく冷たい。代助は何か変だと感じた。今までの三千代とどこか違うのである。瞳を覗くといつのまにか閉じられていて、顔全体が青白かった。唇は紫色であった。そして胸の内に脈打っているはずの鼓動を感じ取ることができない。肌の冷たさが増して手は行き場を失っている。というより冷たいからには、すぐさま合わせ目から抜け出さなければならない。


「ずっと以前から私は死んでいたんだわ」と三千代は言った。
代助は三千代の閉じた瞳から涙が流れるのを見た。本当に三千代はとうの昔から死んでいたのかもしれないと思った。今この時に、ほんの一瞬生きている姿を代助にだけ見せたかったのかもしれない。それに今でも愛していると知らせたかった。だから三千代は何年かぶりに、それもほんの一瞬だけ代助と会ったのである。代助の手は三千代の肌の冷たさに触れながら、そのまま動くことはなかった。どくどくと巡る血液の赤い色を想像しながら、代助はその手で三千代の体を強く抱き締めたかった。頭の中を郵便ポストのような赤い色が駆け巡っている、その赤さを代助は三千代の唇に塗ってやりたかった。唇を赤く際立たせて活き活きと笑っている、白い肌の内に赤い血脈が脈々と流れている、三千代の活きた姿を思い浮かべ代助は必死になって郵便ポストを探しているうちに眠りに陥った。


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詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。