見出し画像

[短編]「都合のない目」

 たまにのぞくギャラリーがある。繁華街には行かない生活が続いているが、近所の観光地の裏通りに小さなギャラリーがあるのだ。ガラス張りなので中が見える。客がいると入らないが、空いてるときには立ち寄った。誰もいないことが多かった。

 ギャラリーの名は「fairly-tail」という。パンフレットによると「tail」にこだわりがある。二つの意味がかけられていて、一つは店の構造。その店、本体は大きな土産物屋なのである。表が店で裏が住居だっのを改造した。長細い土産物屋の一番奥をギャラリーにしたわけだ。それで「tail(尾)」。
 もう一つの意味は統計で使われる場合の意味だそうだ。たとえば、ネットの検索。普通の人は、はじめに表示される項目しか見ない。せいぜい十幾つ。ひつこく探しても百までだろう。
 ところが、検索エンジンは何万何十万というデータを持っている。その99%以上は、ほとんどアクセスされないにも関わらずである。ふつうに考えるとムダに思える。切り捨てれば相当ラクになる。
 しかし、そんなことはしない。何故なら、その末端データにこそ価値があるからだ。その末端データのことを「tail」と呼ぶらしい。
 つまり、世間的には無名の作家であっても、実はかけがえのない表現活動がなされている…… そんな意味が込められている。

 ある日、その「fairly-tail」に、ちょっと不思議な絵が飾られていた。白い鳥の上に小さな女性が乗っているというファンタジックな作品だ。
 最初、前を通り過ぎたときには、そういえばそんな映画のシーンがあったなと思った。子どもたちがファルコンという幻獣の上に乗って飛ぶシーンだ。この国の昔話にも、竜に乗る子どもの話がある。ただし、それらは乗せてくれる動物が大きいという設定だ。そこが違った。
 その絵の場合は、鳥は巨大な怪鳥ではなく小鳥なのだ。小鳥の形をしていたし背景からしてもノーマルだった。人間だけが縮小サイズなのである。
 そしてそれ以上に違っていたのは雰囲気だ。乗っかっている人間が驚いたり怯えたり感激していたりすれば人間らしいのだが、そうでないところが、ひっかかった。

 二度目に通り掛かった時には、立ち止まってよく見直してみた。
 すると、小鳥に乗っているニンゲンは人間ではないらしい、ということに気がついた。言葉で云うとややこしいが、人間が小鳥になり、小鳥が小さなニンゲンになっているようなのだ。

 なぜ、そんなことがわかるのか?

 目だ。鳥の目がまるで人間だった。人間の目が描かれているのではなく、あくまで小鳥の目なのだが、目ヂカラが人間なのである。その一方で、上にのっかってる小さなニンゲンの目は、きょとんとしていた。きょとんというと、違うかも知れない。要するに小動物の目だ。つまり、単に小鳥と人間のサイズを逆転させたのでなく、中身も入れ替わっていたのである。

 自分の思い込みがどの程度当たっているのか、確かめてみたくなって中に入った。絵の横には解説を書いたパネルがあった。

「小さなペットは、自分よりはるかに大きな人間をどんなふうに感じているのだろう……」

 その気づきが、この絵の原点だったようだ。
 そこから、人間と小さなペットの大きさを逆にするという発想が出たわけだ。しかし、普通なら小さな人間に、人間らしい感情を乗せると思う。さっきも云ったように、巨大化したペットに怯えるとか、あるいは、大喜びするとか。
 ところがこの作者は、小さなニンゲンに人間らしい感情を乗せなかった。小さなペットの姿を人間に変え、小鳥の中身を人間にしたのだ。

 アートにふれる魅力の一つは、こういう意外性にある。自分が思いもつかないことを考える人がいる。そして、表現行為はそれを許容する。答えは一つという世界ではない。

 とはいえ、おもしろがってばかりもいられなかった。
 作者がそのような表現をした意図に迫らねばならない。作者の気持ちに思いを馳せるのも鑑賞の醍醐味だ。

 作品をしっかり目に焼き付けて、歩きながら考えることにした。

「漆の器」と大書された看板が目に入った。この店も本店というか土産物を扱う店は表通りにある。裏通りにあるのは逸品モノを揃えた高級店だ。おそらく土産物のほうでは和風、漆塗り風の商品を並べ、職人が伝統技法をで一つ一つ手作りした商品は、別に扱うことにしたのだろう。さもないと、値段の違が目立ちすぎてしまう。質問された時に、安いのはプラスチックにウレタン塗装だとは云いづらい。

 器というのは、人間性をたとえる際にも使われる。
 あの絵、鳥と小さなニンゲンを「器」と考えてみることにした。

 形の違いを無視して、大小だけで考えれば、当然、大きい器には大きな魂が宿るということになる。魂というと大げさなので、キャラとしよう。小さな器には小さなキャラが収まる。そう考えると、あの絵の謎が少し解けそうな気がしてきた。
 小さな器には、小さなキャラがふさわしい。小さなニンゲンが小動物のような目をしているというのは、そういうことではないか?

 自分のことで云えば…… 底辺に長く生きていれば、当然、そういう風貌にもなってくる。品が良い、自信にあふれている、余裕がある、若々しく見える等々…… その正反対だ。
 もし、ちゃんと稼げるようになって、それが何年も続けば、自分だって、そこそこの見てくれになるはずだ。

 ただ、人間の器というのは、自分で作るものでもある。リンカーンは自分の顔に責任を持てと云ったそうだが、つまりそういうことだ。いい歳をして器が小さいというのは自己責任でもある。つまらないことをするから器が大きくならない。器が大きくならないから中身も小さいまま。自分はそんな悪循環の人生だった。

 絵に描かれた小さなニンゲンは、そんなふうにいじけた目をしているわけではなかったが、自信にあふれた目でもなかった。なんとも形容詞しがたい目なのだが、考えているうちに数日前に聴いた話を思い出した。「都合のない人間」の話しである。

 臨終間際の人が見舞ってくれた神父に対して、「自分は都合のない人間ですから」と云った……。
 その日、神父は前日に来れなかったことを謝った。自分の都合で見舞いに来れず申し訳なかったと。
 それに対して、その人は「どうか気にしないで下さい」と云った後に、「自分は都合のない人間ですから」と云ったのである。

 神父がどういうことかと尋ねると、その人は次のように語った。

 まず自分は親に捨てられました。
 ひきとってくれた家も少しすると都合が悪くなり、別の家にやられました。
 子どもの頃は、自分の都合など思いもしませんでした。
 学校を出ると、早く自立しようと頑張って仕事を覚え、三十歳までには一人前になることが出来ました。しかし、まもなく病気で身体を壊してしまい、結局、この有様です。
 ですから、自分には都合などありません。神父さんの都合で、来られる時に来て下されば、それだけでうれしいのです……。

 神父が予期せぬ身の上話に言葉を失っていると、その人が気遣って、こう付足してくれた。

「でもね。一番苦しかったのは、ひとりで自立しようと頑張っていた時なんですよ。こうなりたいと思って生きていた時の方が苦しかったです。それに比べれば、今はすべてを神に委ねていますのでラクです」

 小動物の目というのは、強いて説明すれば、そういうものかもしれない。大きなものに取り囲まれて、その隙間を生きていくのが宿命だ。先に自分の都合を考えてもどうにもならない。
 こういうと弱者の悲哀が漂ってしまうが、小動物はそれを悲しいとは思っていない。ラクだとも思っていないだろうが、そこに感情は持ち込まない。

 そんなことを思っていると、昔、飼っていたハムスターの目がオーバーラップした。「きぃき」という名前のドワープ・ハムスター。初めて飼ったペットだ。
 死ぬ二日前に、後ろ足が両方とも動くなくなった。前足だけで這って移動していたが、少しも悲しいとか、つらそうではなかった。
 そして最後の日、ゲージを覗くと巣から顔を覗かせ、こちらの顔を見て鼻先をクンクンさせてから目を閉じた。それが最期だった。そんな眠り方をするはずがなかったが眠ったようにしか見えなかった。葬ってやる際には泣けた。嗚咽した。

 そういえば、さっきの「都合のない人」、神父にひとつ未練を口にした。誰にも知られずに死に、誰の記憶にも残らないと思うと、それは淋しいと。その人、臨終間際だったが在宅だったのである。誰にも知られずに死ぬというのは十分あり得ることだった。往診も神父の見舞いもごく限られた時間でしかなかったから。
 実際、その人は一人亡くなった。ただ、葬儀は約束していた通り神父がやってくれた……。

「きぃき」が最後にオレの顔を見たのも、そういうことだったのかもしれない。自分の都合など考えずに生きることが出来れば、存外、最後の最期はうまく行くのかも知れない。

 考えているうちに、絵の感想とはかけ離れたことを思うようになったが、「あのちっちゃいニンゲンの目はいい」と思った。

 小鳥の目はこっちを見ている目だったが、そういう目は見ている時には見ているが、別のものを見ている時には、こちらのことを忘れる目だ。

 そこへ行くと、あのちっちゃいニンゲンの目は何かを見ている目ではない。小さな穴から世界を思っている目だ。なんの力も持たない、か弱き存在かもしれないが、その視野の中には分け隔てがない……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?