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みなと

島に行くフェリーは、ぽんぽんと音を立てて、モーターを動かしていた。僕は、客室から離れて、海に面している喫煙席で煙草を吸っていた。煙草の煙が風に流され、海に向かってたなびいていた。僕は、その時、風邪をひいていて、ぐすっと鼻を鳴らした。
その時、感じていたのは、「あなたが横に入ればいいのに」ということだ。その時、小さな漁船がフェリーの傍を通る。小さなさざ波が立ったが、漁師は何もなかったかのように、網を引っ張っていた。潮の匂いがつんと鼻奥をついた。
あなたと、旅に出る前日に喧嘩した。些細な事だった。多分、僕が一昨日の晩御飯を冷蔵庫に入れ忘れたという事だったと思う。理由は忘れてしまったが、ただ、喧嘩したことが、ちくりと僕の胸を錐のように刺した。

僕の右手の煙草が三分の一ほど、死んで生気を失ったかのように白く灰になっていた。僕は、ぼんやり遠くの島を見ていた。あの島には人が住んでいるのだろうと思った。「思えば、遠くにきたもんだ」と曲名を忘れた歌を口ずさむ。海風が僕の声を流すかのように、吹いていた。
「火を貸してくれませんか?」と僕の右側から声がする。僕が声のする方へ振り向くと、茶髪の肩まで伸びた茶髪の男が座っていた。僕は右ポケットからごそごそと100円ライターを出して、付くかどうか確かめ、彼に手渡した。僕は、またぐすと鼻を僕は鳴らした。
「いい景色っすね」と言って、僕の右隣に座って彼は2回かちかちとライターの音を立てて、ロングピースに煙草を付けた。
「そうだね」と僕は思っていない微笑を浮かべ、彼に告げた。彼は20代だろうか、50年程前に流行ったヒッピーのような姿をしていた。
「なんで、この船にのってんすか」と俯いて白い煙を吐き出し、彼は当たり障りのないことを聞いた。
「旅行だよ」と僕が言うと、彼は僕の言葉に興味もなく、「そうっすか」と告げて、黙ってしまった。僕はもう一度左側を流れる風景を見た。夏日で晴れて、輪郭がはっきりとした名もなき島々が後ろに流れていく。僕が右側を振り返ると、茶髪の彼は遠くの方で煙草を吸っていた。僕は左側を流れる風景をただ見詰めていた。

あなたは「もう一緒に住んで2年よね」と僕の裸の左胸を触って言った。僕はあなたの前で煙草は吸わない。あなたは僕の生きている証である胸の鼓動を確かめているようだ。暗に「私との結婚の事考えている?」と言われているのだろうと思った。僕は、ただ白い小さなアパートの無機質な天井を見ていた。僕はただ頷いた。「嘘」とあなたは抑揚のない声で言った。
もう工場で働いて10年になる。不安定な給与でやっていけるとは思えなかった。あなたは「嘘」ともう一度呟いた。僕はベッドに横たわったあなたの裸の右肩に手を回した。貴方の肩は冷たかった。あなたは僕の手を振りほどき、天井を眺めている。晩夏の蝉が鳴いていた。

ぽんぽんと音を立てて走るフェリーの中でアナウンスの声がする。「まもなく、みなとへ到着いたします」と女性が何回も言って摺り減らしたテープで告げていた。
僕は、右手に持っていた煙草を見たが、もうフィルターの所まで火が来て、燃え尽きてしまっていた。僕は灰皿でごしごしと煙草を念入りに押し付け、灰皿に捨てた。僕は足元に置いてあった紫色の小さなリュックサックを右肩に担いだ。気付くと、ヒッピーの彼がデッキにいた。
フェリーの船尾のランプウェーが降りていく。フェリーの人々が何かを話しあって、立ち上がる。子供が嬉しそうな声を上げた。

あなたはおそらく「結婚」もしくは「このまま、結婚を考えてくれなかったら別れよう」と思っていたのではないかと思う。喧嘩した些細な事もその前兆だったのだろう。僕は自分に自信が持てなかった。この先、どうなるか分からない生活をあなたに押し付けていいのか分からなかった。

それぞれが車に乗り込んだ。僕は灰色の歩道を歩くと、島が見えてきた。あれが今日泊まる島だった。島の「みなと」には誰もいなく、ただ、僕は次第に近づいてきている「みなと」を見る。ぽんと小さな音を立ててフェリーが「みなと」に着いた。

あなたと結婚したい、そう言いたかった。

フェリーの歩道を歩く僕は、深い緑色の木々をたたえる小島に降り立った。車を持っていない人達がフェリーから出終わってから、車がランプウェーを降りる。僕は暫くその虚ろな光景と輪郭のはっきりとした海の匂いを感じていた。僕は「みなと」の赤と白のストライプのビットに座った。がやがやと僕の背後を楽しそうな人々が歩いていく。僕は置いてけぼりになった子供のように佇む。僕は只々、遠く離れてしまった本州をじっと見詰めた。あなたは、あそこの一部なんだと思った。突然、僕はあなたの事を寂しいと思った。何故だろう。僕は遠く「あなた」から離れてしまったからだろうか。

その時、右肩を叩かれた。僕が振り向くと、ヒッピーの服を着た彼が、
「ライター貸してください」と言った。彼は2回目の時、笑っていた。彼の笑い顔を見て、僕も思わず笑ってしまった。
「あげるよ」と言って、ライターを彼に渡した。彼は笑って言った。
「人生、なんとかなるっすよ」と、インド服を着た彼は笑って、「サンキュウーっす」と言って行ってしまった。やけに説得力があるなと僕は大きく笑ってしまった。僕はしかめ面をしていたのだろう。僕はビットから立ち上がって海の底を見てみた。底は見えないが、白い海月が漂っていた。白い海月は気持ちよさそうに、海を漂っていた。僕は、リュックサックの背中からスマホを出した。「あなた」に何回かコールしたが、電話は留守番電話に変わってしまった。後で言おう。落ち着いて言おう。
「あなたと結婚したいです」
あなたは何を言うかは分からない。でも、ヒッピーの彼が言ったことを信じようと思った。
「なんとかなるっすよ」と僕も言った。気分が晴れたような気がした。島の蝉が勢いよく鳴き始めた。
「思えば、遠くへ来たもんだ」と僕は軽く口ずさんだ。海の底の海月が気持ちよさそうに泳いでいた。

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