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【本の紹介】「陰謀論入門 誰が、なぜ信じるか? ジョセフ・E・ユージンスキ著 北村京子訳」を読んで。

どうも、こんにちは。
堀さんです。
この前、久しぶりに読み返したら色々と考えさせられたので思ったことをメモ程度に残しておきます。
本って時間を空けてから読み直すと違った味わいがあるよね、、あの感覚を残しておきたかったのです!

※メモって書いてありますが、書き出したら止まらなくなり、めっちゃ長くなりました。約1万字あります。ご了承下さい。

本のリンクを貼っておきます。

では、

陰謀論ってなんぞや?

まず、いきなり引用です。

「過去、現在、未来の出来事や状況の説明において、その主な原因として陰謀(謀略)を挙げるものを指す。陰謀と同じく、陰謀論にも権力を持つ人々の意図や行動が関わっている。そのため、陰謀論は本質的には政治的なものと言える。陰謀論は、何かを非難する見解であり、真実も嘘も内包している可能性があり、また権威による公式な意見が存在する場合には、それと矛盾するものである」(p43)

(私のメモ)
陰謀論とは、
・状況の説明で、陰謀を挙げるもの。
・権力を持つ人々の意図が入る。(権力エリート→一般人という構図)
・多くは政治的なもの。
・何かを非難する見解。
・真実も嘘も内包している可能性。
・権威の見解と矛盾する。
こんなイメージなのかな。もし、付け加えるならば、想像できる範囲で、
・情報の出所がよく判らない。玉石混淆で曖昧。
・言い出しっぺが誰なのか特定することが難しい。陰謀論の多くは、すでに誰かが唱えたことの復唱であることが多いように思う。

「これは陰謀である!」と認定されるには?

著者はニクソン大統領のウォーターゲート事件を例にして、

「この事件が、陰謀と呼ばれるのは、議会や裁判所など、その審理や証拠が公開されているいくつもの調査機関によって陰謀とみなされたからだ(p42)」

と述べている。
そして、その裁定を下す組織のことを「認識論的な権威」と呼んでおり、この権威による調査なくして、陰謀かどうかを認めるわけにはいかないと主張している。

以下は、「認識論的な権威」が行う調査の詳しい説明。

「(陰謀の対象になっている)関連分野における知識に関する主張を評価し、広く認められている方法を用いて、有効なデータから偏りのないやり方で結論を導き出すための訓練を受けた人たちによる調査」(p42)

とのこと。
てか、一文長ぇ……。理解するのに時間がかかったよ私は。

(私のメモ)
認識論的な権威による査定が入り、事実と認められたら「陰謀」として扱われる。
査定が入らず、個人の主観に留まるのであれば「陰謀論」として扱われるということだろう。
うーん、そんなことを言ったら、社会生活はほぼすべて陰謀論っぽいですよね。
ほぼすべて、個人の主観に留まるものばかりじゃないですか?
「私はあの人に虐められた」、「私はあの人から嫌われている」などと思っても認識論的な権威による査定が入らないと、「陰謀論」を叫ぶときと同じ精神性になっちゃいそうな気がしませんか。
彼らからは、
「私は君をイジメてなんてない。いじめたっていうソースは? それが示せないならばデマや、誤情報として片付けますよ〜。」 
「私は別にお前のことを嫌っているわけじゃないよ。それはお前の妄想だよね。」
ってな感じで反論されそう。そしてそれを言われると、懸念が余計に大きくなって嫌いになるというパターン。(陰謀論信者も家族や友人から反論されると、彼らを嫌いになって余計に信じたくなってしまうのではないか。それも似ているなと思った。)
実際、当事者同士の対話が実現せず、勘繰りに勘繰りを重ねて、相手を「悪いイメージ」で固定してしまっている人が多いのではないかと思う。それが、不登校やひきこもりの場合だと、人ではなく「社会」になる人もいるだろう。
それはある種、妄想を深く信じ込んでいる状態と定義できるのではないか?
それが良いか悪いかは別としても、「相手にラベルを貼り付ける」という作業は、程度の差はあれ、多くの人が毎日行っていることだと思う。
私の考えでは、それが極端な形で現れたものが、「陰謀論を他人に強制する人」なのだと思う。

こんな感じかな。

お次はこちら。

「陰謀は頻繁に起こるものであり、われわれの政治における望ましくはなくとも重要な一部として、決して見過ごされるべきではない。権力を持つ者はときにその力を濫用し、また、秘密の陰謀が仕組まれることも少なくない。政治に関心を持つ市民として、われわれは常に不正行為に注意を払わなければならない。ただし、陰謀が行われていると主張する見解、つまりは陰謀論は全てが真実というわけではない」(p43)

(私のメモ)
私の勝手な想像だが、金融系の陰謀では、計画を実行してから5〜10年後くらいに特捜部に入られて捕まる人が多い気がする。
陰謀を無くするとは、この世から逮捕者が0人になるということかもしれない。そのように仮定をすると、陰謀を完全に抹消するのは不可能だろう。
陰謀とは人間生活の一部分ということもできるかもしれない。
ただ、特捜部に入られるような陰謀は本書の対象としてはパンチが弱い。
本書が対象にしているのは、証明が絶対にできないような陰謀論、そしてそれを信じ、世界観を強制しようとする人々である。

話は逸れるが、少し前までは、「ジャニー喜多川の性加害」や「自民党と統一教会の癒着」というのは陰謀論界のネタだった。しかも割とド定番という。
そっちの方面で有名な話題だったので、主要なメディアが取り上げる問題ではなかったように感じる。
しかし、現在では、「事実だった」ということが、著者の言葉を借りれば、「認識論的な権威」によって認められたのだ。

・・・・
・・・
・・

ここなんですね。

「あの頃は陰謀論のネタで相手にもされなかったのに、調査をしたら事実だったよ〜ん」というオチ。
私が、「陰謀論を取り締まる」、「陰謀論を禁止する」という一方的な考えに疑問を持っているのはこの点なんです。
もしかしたら、本当の陰謀を隠すために敢えて陰謀論という化粧を施していたのかも、なんて思いますよ。(あれ、これは陰謀論思考か、、、)

この辺のことは、著者のユージンスキさんも思っているようで、本書の最後の章でこんなことを言ってます。

「大半の陰謀論は無害だが、一部には健全な懐疑心を不健全なレベルにまで高めている陰謀論や陰謀論者も存在する。その結果、ときには暴力が発生する。陰謀がしつこく主張されることによって、民主主義が阻害されることもある。自分の敵対者が自分に対する陰謀を企てていると思い込んでしまえば、対話は不可能になるかもしれない。そのコストを知った上で、陰謀論の禁止を求める声もある。
しかし、こうした考えは陰謀論が必ずしも誤りではないことを忘れている。陰謀論はほんとうであることもあれば、間違っていることもある。〜 略 〜 政府やテック企業が陰謀論を禁じたり、埋もれさせたりすれば、調査を進めれば真実であることが判明するかもしれない重要な発想を抑圧することにつながる。また、その多くが偽りだと確認された場合でも、詳しい調査を求めることによって、陰謀論が真相を明らかにする助けになることもある。」(p184)

こうした、「一方的に決めつけないスタンス」は重要だなと思いました。

陰謀論は敗者のものなのか?

著者の経験的観察によれば、

「陰謀論は社会的に弱い立場にある集団によって、彼らが認識した危険を管理するために使用されている。〜 略 〜、陰謀論は脅威の認識の一形態であり、恐怖心は基本的に相対的な力の変化によって引き起こされる。敗北と排除がその最大の誘因であるのだから、陰謀論は敗者のためのものである」(p150)

(私のメモ)
たしかに、今イケイケで充実した毎日を送っている人が、陰謀論にどハマりして、実は人間関係ボロボロなんです、という話は聞かない……。
また、私の知人に陰謀論にハマり、社会を陰謀論というメガネを通してしか見ない人がいるが、彼は大昔、投資に失敗して割と高そうな損失を負った過去を持つ。さもありなんといったところなのか。
陰謀論的な視点を持ってなお、仕事、人間関係その他諸々、充実した生活を送れる人というのは、本当にすごい人だと思う。
なぜすごいと感じるのか?
それは、物事の両側を見ようとしており、自分の考えがすべてではないと自己を客観的に評価することができ、なんといっても、自分の見解を相手に押し付けないことだろう。
自分の考えがすべてではない、という感覚は非常に重要だと思う。

「敗者は、不当な扱いを受けたと感じ、自らの敗北の理由を説明するために陰謀論に頼ることがある」(p150)

「負けたことの責任を認めたり、勝った側を褒めたりするよりも、負けたことを策略(陰謀)のせいにするほうが簡単だと感じる人もいる」(p150)

「陰謀論によって非難の対象となる集団は、その時点でだれが権力を握っているかによって移り変わる」(p152)

(私のメモ)
三つ目の引用を身近な例で例えると、
自民党が政権を執っている期間は、自民党が槍玉に挙げられ、民主党が政権を執っているときは民主党が槍玉に挙げられる。自民党の期間は、民主党(野党)の話はほとんど聞かなくなるということ。
当たり前のように感じるが、非難の対象がコロコロ移り変わるというのは非常に面白い。

陰謀論に傾倒するのはなぜなのか?

認知的閉鎖欲求の存在。

「この欲求は、不確実性に対する不寛容と考えることもできる。答えを今すぐに欲しがる人というのはいるものだ」(p102)

「陰謀論は、単純な答えと不確実な状況に対する説明を提供するため、不確実性に耐えられず、認知的閉鎖を求める人にとって魅力的に映る」という仮説がある。(p102)

(私のメモ)
認知的閉鎖欲求のレベルが高い人というのは、「原因は〜だ!」と早期に決着をつけてしまいたい気持ちのレベルが高い人のことだと思われる。
「これからは〜の時代です!」とYouTubeで叫ぶ人にも同様の印象を持っている。
また、専門家という肩書きで、戦争の動向を予想する人にも似たような感覚がある。ぶっちゃけ、ハズレまくっとるやんけ。
誰だったろう、当初ウクライナとロシアの戦争は3ヶ月も続きません!と言っていた大学教授は……。
なぜ、経験値を得ると人は予想を示したくなるのだろうか。(これは筆者も含まれている自覚がある。)
私のような素人は、戦争の予想を示されると心が不安になるが、別にその言説を信じる必要はないのかもしれないと思った。

もっと身近な例で言えば、こういう予想ばかりする人が学校の先生や心理カウンセラーにいたら嫌だな(ボソッ)

「人は、おそらく進化の過程において、心理学的な不正検出器、つまり他者の不正行為を疑いたいという欲求を発達させてきたものと思われる。一部の人たちは過剰な不正検出器を有しており、そのせいで証拠がほとんどない場合でも、他の人たちが不正行為を行なっているのではないかと考える」(p102)

「一部の人たちは、結果から出発して動機、行動と逆に辿っていき、何かが起こったのだから、誰かが意図的にそれを起こしたに違いないと考える。思考がこのバイアスの影響を強く受けている人は、陰謀論を信じる傾向にある」(p104)

(私のメモ)
この二つ目の引用を別の話で例えるならば、
「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺だろう。
この諺に、「結果から出発する」という陰謀論的解釈を施すとこうなる。

1、桶屋が儲かる。(結果)
    ↓
2、桶屋が一番儲かったのだから、風を吹かせたのは桶屋だろう。(推測1)
    ↓
3、桶屋は裏で気象兵器を開発しており、それを運用して「強風」を作り出したのかもしれない。(推測2)
    ↓
4、そもそも桶屋に莫大な資金を提供をした奴がいるはずだ。(気づいたら桶屋は黒幕を隠すフロント企業という設定が施させる)   (推測3)
    ↓
5、黒幕は、桶屋を背後で操る〇〇だ。(結論)

ってな感じに進んでいく。
実は、この「桶屋の陰謀」は陰謀論を批判するときによく使われる表現という印象を持っている。
推論に推論を重ねまくった結論は、事実ではないという、、、
たしかに、その点だけ考えるとそうに違いない。

しかし、私はこの思考法自体は悪い考えではないと思っているのだ。
出来事や事件を分析するときには必要な方法だと思う。
批判されるべき点はやはり、それを信じている人が家族や友人に一方的に強制する点だろう。

少し話が逸れるが、
私はこれを考えているとき、デデデデ(浅野いにお著)の小比類巻君と門出のお母さん、竹本ふたばさんが脳裏に浮かぶ。
この人たちは作中で自分の正義(絶対)を信じている人だからなのだろう、きっと。
正義を信じるのは本当にカッコいいことなのか?
私はこの作品の中では正義とか悪とかを毒吐いて退け、ニートに徹する凰蘭の兄貴に妙にハマっておりました。(笑)

さて、話を戻します。
物事を探究するときに、この「結果から出発して原因を探る」という手法は、心理学でいうところの精神分析的手法に似ている。
私自身が、ひきこもり状態から社会に戻るときにお世話になった手法である。
私は精神分析を「学問として」きちんと学んだことはないのだが、その発想を社会に適用させようとする人が出てくるのは仕方のないことだと思う。

1、社会は人間で構成されている。
   ↓
2、人間一人ひとりに無意識が存在している。 
   ↓
3、故に社会にも無意識は存在する。

という論理。

陰謀論で槍玉に上がる組織とは、この社会の無意識的な部分なのだろうか。
「人間には意識できないが、ずっと太古から存在している領域」というニュアンスだろうか。

「無意識」の重要なポイントは、本人が自覚できないというところにあるそうだ。
本人が自覚できたと思ったら、それは自覚できていないことの表れである。無意識とはそういう領域であると私は教わった。
社会の無意識を探求するということは、結局のところ、社会を構成する私たちには意識できない領域を探求することであり、そこには「絶対」という思考が入る余地はない。
面白いことに、「答え」という確かなものはなく、常に可能性の領域なのだ。
つまり、そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
どっちとも取ることができてしまう解釈の世界。

「さて、私たちはこの不確実性に耐えられるのだろうか?」

陰謀論はここの部分を試しているように私には思えてならない。

私の相談に乗ってくれた、心理カウンセラーはよく、「人の心に絶対なんてないのよ。手法も色々、パターンも色々。心理テストみたいな一つの物差しで決めて良い世界じゃない」と言ってたな。

あなたが気づいた真実は、立場や視点が変われば真実ではないのかもしれない。
あなたが「これが原因だ!」と思った事柄は、違う視点から見たら超些細な要素かもしれない。
私の好きな言葉に、「善も悪も立場(思想)が変われば逆転してしまう」というのがあるが、これもその通りだろう。

難しいね、このあたりの分別が。

このような発想を持ってから、私が精神分析を受けて取り敢えず理解した、「自分の心理パターン」や「トラウマ」や「過去解釈」などの結果は、半分くらい嘘なのではないかと思っている。これは不思議な感覚なのだ。
あのときには、「過去のあの出来事がトラウマになって、私は自己を抑圧するような心理パターンを形成した」と本気で信じていたのだが、今から思うと、所詮、過去の解釈と捉えることができるのだ。しかもその過去たるや、曖昧で、自分に都合のいいように書き換えているかもしれず、自分の口から出てくるということは既に無意識ではないし。
今では、「それも原因だったかもね…」くらいの感覚で角が丸くなり、穏やかになったと思う。要するに、自分に対して断定口調(〜しなければならない、〜すべき)を言わなくなったように感じる。

うーん、、、
陰謀論に対しても、同じことが言えるのではないだろうか?

私は今でこそ、こういう、「陰謀論を読む人を分析するような本」を読んでいるが、一時期、陰謀論系の本ばかり読んでいたことがあり、非常に視野が狭くなっていたなと思い返す。

陰謀論が「立場の弱い人が読むもの」という分析にも概ね同意できる。
それは私自身が、不登校→精神科→ひきこもり、ニートを経験しているからだ。
社会のほとんどが不登校、ひきこもり経験者なら、私は陰謀論を読まなかったのではないかと思っている。なぜならそれが多数派を構成している社会だからだ。「自分以外もみんな同じなのか……。みんな似た境遇なのか……。」と、ある種の仲間意識を無意識に抱え、かなり平穏に暮らせる気がするのだ。
不登校当時、学校に行けている人たちと、それが出来ない自分を比較して、毎日苦しかった。(それだけではないが)
自分がこんな苦しい経験をしなければならないのは、「社会がオカシイからだ!」と思っていた。そんな願いとマッチしたのが陰謀論だった。
そして常に原因は自分ではなく外部にあると思うようになっていったのだ。
自分のことを棚に上げていたと反省している。

今でも、社会に対する疑問はたくさんあるが、当時と比べると角が丸くなったと思う。

それはなぜなのか。

今考えられる範囲で、3つほど挙げてみる。

一つ目。
それはきっと、「社会に戻って微々たるお金を稼いでしまっているから」だと思う。
ここでは、ブラックとかホワイトとか関係なく「お金を得る」という行為(象徴)が大きな鍵を握っている気がする。
「お金を得る」とその瞬間、角が丸くなる自分がそこにいるのだ。

二つ目。
二つ目は、「社会と、ある程度の交流ができてしまっているから」だと思う。
今の私は、カフェでのバイトやサポステの相談員との面談がそれに相当するだろう。バイトで稼いだお金を銀行に下ろしに行ったり、映画を観たり、ディスコードでどこの誰かも知らない名前さえ本名ではないゲーム仲間とチャットできたりするのも、そうかもしれない。(ひきこもり当時は他者との出会いをほとんど拒絶していたことを思い出す)

三つ目。
そして最後は、「社会の標準(ノーマル)に自分が再び回収されたから」だと思う。
これは社会の波から外れた人には分かるかもしれない。
私の場合は、学校という学生にとっての「主流社会」が嫌だから行けなくなったはずなのに、大人になったら嫌だったはずの「主流社会」に還元していくという構図である。やはり、生きるための鍵(主導権)は「主流社会」が握っているのだと感じる。
この感覚と構図は、私がひきこもり時代に読んだ、「無通文明論(森岡正博著)」という思想の本で深く考察されている。
森岡さんが、この社会を、「温度が一定に保たれ、皆が同じ方向を向いてぷかぷか浮いている流れるプール」に例えられていたのは鋭い指摘だなと思った。
プールでは泳げない人がいる。また、浮き輪の空気が抜けて、先ほどまでの安心感が一瞬で恐怖に変わってしまう人もいるかもしれない。泳ぐのに疲れてしまいプールサイドに掴まり立ち止まる人もいるだろう。
こういう人たちは、現実社会ではどういう立場の人なのだろうか?
全員が全員、安心感を持ってプール(社会)に浮かんでいるわけではない。しかも、流れるプールはどこを目指しているのだろうか。誰が流れを起こしているのか。実は流れるプールは私たちから大事な何かを奪い取っているのではないか。
想像が膨らむ思想本だった。
もし、読者の中で、この感覚にムムッとシンパシーを感じた方は是非調べてみて欲しい。

陰謀論を手放すとは?

これはそんな私の些細な気づきであるが、「陰謀論はある一定のレベルの知識を得ると、それ以上は期待できなくなる」と思っている。
なぜなら、同じ話題の繰り返しだからだ。
時代の流れによって、登場人物はアップデートされるのに、基本の構図が変わらないのだ。まるで、登場人物名だけを変えたSF小説をずっと読んでいるかのような感覚に陥る。
陰謀論で重要なことは、その仕組み(構図)を知ることではないかと思っている。
陰謀論の中に隠れている「権力の振る舞い方」や「物事の疑い方」などを自分なりに抽出するのだ。私は、疑い方にさえ基本があるように感じる。
しかしそれさえ、正しいかどうかは分からない。正しさというものに力点を置くと、一気に周囲がボヤけて見えなくなると思っている。
私はまた、個人名や組織名はあまり重要ではなく枝葉だと思っている。いつの時代も似たような振る舞いを見せる、似たような人物や組織というのはいるものだ。陰謀論はそういうことを教えてくれた。
そして少しずつ飽きてきて陰謀論からフェードアウトしていった。

陰謀論と優越感覚?

先ほど紹介した、陰謀論フィルターを通すことでしか社会を見ようとしない知人は、「自分は周りの人が知らない知識を持っている」という優越感覚を抱いていた。
自分は、選ばれた、真実の側(光の側)に立っているという感覚なのだろうか。

著者のユージンスキさんは独自性欲求と陰謀論の特徴をこう述べている。

「独自性欲求とは、自分は特別であると感じたい思いのことだ。独自性欲求が高い人は、高い陰謀思考のレベルを示し、特定の陰謀論を信じるレベルも高い。その理由はおそらく、陰謀論が自らを特別な存在である人だけが得られる特別な知識として提示されることが多いためだと考えられる」(p106)

なるほど、特別な存在ね。
私もそう思いたがっていた時期があった。不安で苦しいからこそ余計にね。

長くなったが、最後に、陰謀論に傾倒している人には嫌悪の対象かもしれない、「ChatGPT」にこの本を薦めてもらおうと思う。

さて、どうなることやら。

「陰謀論入門 誰がなぜ信じるのか?」は、作品社によって出版された本で、陰謀論についての認識と理解を深めることを目的としています。本書は、陰謀論がなぜ多くの人々に魅力的に映るのか、またなぜ一部の人々は真実ではない陰謀論に固執するのか、その心理・社会的な要因を分析しています。
著者は、陰謀論とは、一般的に、秘密の組織や個人が悪意を持って陰謀を巡らせ、特定の出来事や状況に対して説明を与える理論や信念のことであると定義しています。陰謀論は、人々の不安や不満、疑問に対する解決策として提案され、現代社会において広く浸透しています。
本書では、陰謀論を信じる人々の心理的な背景に注目しています。陰謀論は、人々が不確実性や脆弱性といった要因に直面したときに、安心感や支配感を与える場合があります。また、陰謀論は社会的な結びつきや共同体の形成を促す役割も果たしています。
さらに、著者は陰謀論が社会に与える影響についても考察しています。陰謀論は、信念や行動に大きな影響を与える可能性があり、社会的な分断や不信感を引き起こすこともあります。それに対して、教育やメディアの役割を強調し、批判的思考や情報の正しさを重視することが必要だと主張しています。
本書は、陰謀論についての理解を深める上で貴重な資料であり、陰謀論に関心のある読者や一般の人々にとっても興味深い内容となっています。陰謀論に対する批判的思考を促し、より客観的な視点で社会現象を考えるきっかけとなるでしょう。

読書紹介文だったらクラス1位だろこれ

実際、ChatGPTは考えを断定しないのです。常に「〜ということもある」、「〜という可能性」、「〜かもしれない」と、解釈の余地を残してくれている。
これが全部、断定口調になったら怖いですね、、、想像しただけで寒気が。

ということで、興味のある人は読んでみてほしいなと思います。

陰謀論にハマっている人は怒りが沸々と湧いてくるかもしれないです。
信念に疑問を持たせようとするのだから、当然と言えば当然なんですが。
私も、以前はこういう類の本を読んで、図星を突かれて、そうなりましたからよく分かります。
なにくそ〜、こいつは偽物だぁああって。(笑)
(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾Σ(-᷅_-᷄๑)    ←こんな感じ

終わりに

私は、陰謀論というものは、それを取り締まろうと日々叫ぶ政治家やメディアにも問題があると思っていますが、同じくらい読み手にも問題があると思っています。なぜなら、私も読み手側の一人だったという自覚があるからです。
政治家や社会的エリートになると、また違った視点で陰謀論を眺められるのでしょうね。陰謀を行う側ってどんなこと考えてんだろうっていつも思います。
私は、なったことがないから推測しかできないんですがね。
よく言われるのは優生思想ですが、あれって私たちから見た相手の行動イメージなんですよね。相手は、権力の法則に則ってるだけで、本当は、なんも考えてないのではないか。
そして私も同じ立場になったら同じように振る舞ってしまうのではないかという感覚を捨て切れないです。
(これは虐げられた人が権力を握ると、弱い人に手を差し伸べるのではなく、暴虐になるというアレですね。)
そう考えると、優生思想のほうが自然(本能)で、情緒や他者への思いやりはその後に追加された能力のような気がしてくる。そして権力とは人間の本能を触発するのかもしれない。

とかなんとか。
、、、うーん、この辺り、マジで難しいんですね。(泣)

で、何をお伝えしたいのかというと、
陰謀論は、一方的に馬鹿にするには勿体ないくらいの哲学と思想のオンパレードなのです。だから、世の中の色々な考え方を分野を問わず横断的に学べます。注意点は多々ありますが。
おすすめは、信じないという心持ちで、自己を相対化(私の考えが全てではない)をしながら学習することです。
なんせ思想ですからね、やはり。
色々な考え方があるのが「論」であり「思想」でしょう。一つの考えを後世大事に握りしめるより、色々な考え方を身につけて物事を多角的に見るほうがカッコいいと私は思います。

ーーーーーーーーーーーーーー

今回は、この辺にします。

メモ程度に記す、と最初のほうで書いていましたね(白目)
しかも、支離滅裂じゃないですか。読み返したら軸が無いように見えました。
いや、メモだから支離滅裂で良いのか。(開き直り早ッ!)

ここまで読んで下さり、ありがとうございました。
良い1日を!

(追記)
4/18 ちょっと編集しました。



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