見出し画像

【企画】芥川龍之介『妙な話』全文にツッコミを入れてみた 二周目【ネタバレあり】

前回からの続き。はじめての方はぜひ一周目からご覧ください。


二 周 目

 ある冬の夜、私は旧友の村上と一緒に、銀座通りを歩いていた。

村上から誘って二人は出かけたのだろうか。だが主人公は「私」は、実は村上に隠している秘密があるのだ。

「この間千枝子から手紙が来たっけ。君にもよろしくと云う事だった。」
 村上はふと思い出したように、今は佐世保に住んでいる妹の消息を話題にした。

妹の「千枝子」について話題にする旧友。おまえの妹と隣にいる男とは、不倫関係にあるということを、お前はまだ知らない・・・

「千枝子さんも健在だろうね。」

「ああ、この頃はずっと達者のようだ。あいつも東京にいる時分は、随分神経衰弱もひどかったのだが、――あの時分は君も知っているね。」

「知っている。が、神経衰弱だったかどうか、――」

素知らぬ顔をする主人公・・・なんてやつだ。

「知らなかったかね。あの時分の千枝子と来た日には、まるで気違いも同様さ。泣くかと思うと笑っている。笑っているかと思うと、――妙な話をし出すのだ。」

「妙な話?」

会えなかった千枝子さんについて、何かわかるかもしれない・・・そんなふうにでも思ったのか、関心のある素振りをする私。

 村上は返事をする前に、ある珈琲店の硝子扉を押した。そうして往来の見える卓子に私と向い合って腰を下した。

「妙な話さ。君にはまだ話さなかったかしら。これはあいつが佐世保へ行く前に、僕に話して聞かせたのだが。――」

どきっ、千枝子のやつ、村上に余計なこと話してやいまいか―――主人公はそんなふうに思ったにちがいない。

君も知っている通り、千枝子の夫は欧洲戦役中、地中海方面へ派遣された「A――」の乗組将校だった。あいつはその留守の間、僕の所へ来ていたのだが、いよいよ戦争も片がつくと云う頃から、急に神経衰弱がひどくなり出したのだ。

そう、千枝子さんの夫が日本にいなかったこのタイミングで、二人は不貞をはたらこうとしていたわけだ。

その主な原因は、今まで一週間に一度ずつはきっと来ていた夫の手紙が、ぱったり来なくなったせいかも知れない。

夫がいない寂しさから、兄の友人との関係に―――そしてその負い目から、彼女は不安を抱えてしまったというのが、真相なのではないだろうか。

何しろ千枝子は結婚後まだ半年と経たない内に、夫と別れてしまったのだから、その手紙を楽しみにしていた事は、遠慮のない僕さえひやかすのは、残酷な気がするくらいだった。

結婚半年・・・もしかしたら二人の関係は、結婚以前からという可能性も。 

ちょうどその時分の事だった。ある日、――そうそう、あの日は紀元節だっけ。何でも朝から雨の降り出した、寒さの厳しい午後だったが、千枝子は久しぶりに鎌倉へ、遊びに行って来ると云い出した。

紀元節というのは今の建国記念の日、つまり二月十一日。主人公はきっと休みの日だったのだろう。

鎌倉にはある実業家の細君になった、あいつの学校友だちが住んでいる。――そこへ遊びに行くと云うのだが、何もこの雨の降るのに、わざわざ鎌倉くんだりまで遊びに行く必要もないと思ったから、僕は勿論僕の妻も、再三明日にした方が好くはないかと云って見た。

千枝子さんは友達のところへと言っているが、本当は私との約束があったというわけだ。なるほどそれなら、日にちを変えるわけにもいかない。

しかし千枝子は剛情に、どうしても今日行きたいと云う。そうしてしまいには腹を立てながら、さっさと支度して出て行ってしまった。

嘘がばれてはまずいからと、つい感情的になってしまった千枝子さん。

 事によると今日は泊まって来るから、帰りは明日の朝になるかも知れない。――そう云ってあいつは出て行ったのだが、しばらくすると、どうしたのだかぐっしょり雨に濡れたまま、まっ蒼な顔をして帰って来た。

帰りがいつになるかあいまいなのは、相手次第でわからないという事情があったわけだ。しかし、会うことができず帰ってきてしまった、と。

聞けば中央停車場から濠端の電車の停留場まで、傘もささずに歩いたのだそうだ。

私に会えなかったから、一人で帰ってきてしまったのか、それとも・・・

では何故またそんな事をしたのだと云うと、――それが妙な話なのだ。

しかし二人が会えなかったことと赤帽とは、どんな関係があるのだろうか。

千枝子が中央停車場へはいると、――いや、その前にまだこう云う事があった。

村上さん、ちょいちょい回りくどい言い方しますね。(二周目)

あいつが電車へ乗った所が、生憎客席が皆塞がっている。そこで吊革にぶら下っていると、すぐ眼の前の硝子窓に、ぼんやり海の景色が映るのだそうだ。

千枝子さんはこの時、地中海の夫のことを考えていたのか、それとも朝鮮半島の主人公のことを考えていたのか・・・

電車はその時神保町の通りを走っていたのだから、無論海の景色なぞが映る道理はない。が、外の往来の透いて見える上に、浪の動くのが浮き上っている。

いずれにしても彼女の心は、日本にはなかったということだ。

殊に窓へ雨がしぶくと、水平線さえかすかに煙って見える。――と云う所から察すると、千枝子はもうその時に、神経がどうかしていたのだろう。

しかし、そんな細かい心象まで、千枝子さんは兄に語ったというのだろうか。

 それから、中央停車場へはいると、入口にいた赤帽の一人が、突然千枝子に挨拶をした。

赤帽登場。彼は千枝子夫婦を監視していたのだろうか。それとも主人公との関係を・・・

そうして「旦那様はお変りもございませんか。」と云った。

この赤帽の言葉を、素直に受け取るべきか否か・・・

これも妙だったには違いない。が、さらに妙だった事は、千枝子がそう云う赤帽の問を、別に妙とも思わなかった事だ。

「難有う。ただこの頃はどうなすったのだか、さっぱり御便りが来ないのでね。」――そう千枝子は赤帽に、返事さえもしたと云うのだ。

さらりと答えているあたり、実はそこまで夫のことを心配していないのでは・・・?

すると赤帽はもう一度「では私が旦那様にお目にかかって参りましょう。」と云った。

赤帽はどうやって欧州にいる夫に会いに行けたのか。当時の移動手段はもちろん船である。

御目にかかって来ると云っても、夫は遠い地中海にいる。――と思った時、始めて千枝子は、この見慣れない赤帽の言葉が、気違いじみているのに気がついたのだそうだ。

千枝子さん、不貞を前に夫を想い出しハッとする。

が、問い返そうと思う内に、赤帽はちょいと会釈をすると、こそこそ人ごみの中に隠れてしまった。

今いちばん触れられたくないところを突いてくる赤帽、密偵のごとく素早く身を隠す。

それきり千枝子はいくら探して見ても、二度とその赤帽の姿が見当らない。――いや、見当らないと云うよりも、今まで向い合っていた赤帽の顔が、不思議なほど思い出せないのだそうだ。

顔が思い出せない、とは何を意味するのか。赤帽が非人間的だからなのか、それとも疚しい心ゆえなのか。

だから、あの赤帽の姿が見当らないと同時に、どの赤帽も皆その男に見える。そうして千枝子にはわからなくても、あの怪しい赤帽が、絶えずこちらの身のまわりを監視していそうな心もちがする。

そして気になるのは、やはり赤帽の正体。軍人の夫の身辺を探っている、という可能性も?

こうなるともう鎌倉どころか、そこにいるのさえ何だか気味が悪い。千枝子はとうとう傘もささずに、大降りの雨を浴びながら、夢のように停車場を逃げ出して来た。

気味が悪い、ということになっているが、不貞の現場で夫について問われ探られてると考えたら、一刻も早く逃げ出したくもなるだろう。しかも相手が何者なのかもわからないのだから。

――勿論こう云う千枝子の話は、あいつの神経のせいに違いないが、その時風邪を引いたのだろう。

村上は赤帽のことを信じていないようだが、鎌倉に遊びに行く、という嘘には気づいていないのだろうか。

翌日からかれこれ三日ばかりは、ずっと高い熱が続いて、「あなた、堪忍して下さい。」だの、「何故帰っていらっしゃらないんです。」だの、何か夫と話しているらしい譫言ばかり云っていた。

この台詞、二周目になると全く意味が変わってくる。夫に会えないつらさというより、不貞に走った自分の罪悪感とも聞こえてくる。

が、鎌倉行きの祟はそればかりではない。
風邪がすっかり癒った後でも、赤帽と云う言葉を聞くと、千枝子はその日中ふさぎこんで、口さえ碌に利かなかったものだ。

赤帽は今も自分を監視しているかもしれない、そう思うときが気じゃなかったのではないか。ちなみに当時は姦通罪なるものがあり、妻の不倫は処罰の対象であった。赤帽は本来駅員だが、千枝子さんが制服姿の彼を警察や取締官のように感じてしまっていたとしてもおかしくはない。

そう云えば一度なぞは、どこかの回漕店の看板に、赤帽の画があるのを見たものだから、あいつはまた出先まで行かない内に、帰って来たと云う滑稽もあった。

とはいえ、看板の画に恐れをなすというのは行き過ぎた反応だな。もしかしたら、話を可笑しくしようと村上が話を盛ったという可能性も?

 しかしかれこれ一月ばかりすると、あいつの赤帽を怖がるのも、大分下火になって来た。
「姉さん。何とか云う鏡花の小説に、猫のような顔をした赤帽が出るのがあったでしょう。私が妙な目に遇ったのは、あれを読んでいたせいかも知れないわね。」――千枝子はその頃僕の妻に、そんな事も笑って云ったそうだ。

ここでいう鏡花の小説は『紅雪録』と思われる。日清戦争中、スパイ容疑をかけられるのが主人公で、淫婦が赤帽に断罪されるシーンがある。ズバリ千枝子さんの境遇に一致する。

ところが三月の幾日だかには、もう一度赤帽に脅やかされた。

密会の約は二度だった。

それ以来夫が帰って来るまで、千枝子はどんな用があっても、決して停車場へは行った事がない。君が朝鮮へ立つ時にも、あいつが見送りに来なかったのは、やはり赤帽が怖かったのだそうだ。

千枝子さん、一度目の約束を破った主人公に、まさか素知らぬ顔をして会うなんてことはできなかったわけだ。

 その三月の幾日だかには、夫の同僚が亜米利加から、二年ぶりに帰って来る。――千枝子はそれを出迎えるために、朝から家を出て行ったが、君も知っている通り、あの界隈は場所がらだけに、昼でも滅多に人通りがない。

夫の同僚の出迎えに行く、ってよく考えて違和感がある。兄がついて行ったわけでもなし。そして実際には、主人公私に会いに行っていた。

その淋しい路ばたに、風車売りの荷が一台、忘れられたように置いてあった。ちょうど風の強い曇天だったから、荷に挿した色紙の風車が、皆目まぐるしく廻っている。

村上、自分で見てきたかのようにしゃべるな。(二周目)

――千枝子はそう云う景色だけでも、何故か心細い気がしたそうだが、通りがかりにふと眼をやると、赤帽をかぶった男が一人、後向きにそこへしゃがんでいた。勿論これは風車売が、煙草か何かのんでいたのだろう。

風車と言えば子どもを象徴するもの―――千枝子さん、まさか暗に妊娠の可能性におびえているのでは。

しかしその帽子の赤い色を見たら、千枝子は何だか停車場へ行くと、また不思議でも起りそうな、予感めいた心もちがして、一度は引き返してしまおうかとも、考えたくらいだったそうだ。

不貞行為への罪悪感と、一度約束を破った後ろめたさとの間で葛藤しているようにも思える描写である。

 が、停車場へ行ってからも、出迎えをすませてしまうまでは、仕合せと何事も起らなかった。

赤帽に出会わなかった。主人公にも、ここまで出会わなかった。

ただ、夫の同僚を先に、一同がぞろぞろ薄暗い改札口を出ようとすると、誰かあいつの後から、「旦那様は右の腕に、御怪我をなすっていらっしゃるそうです。御手紙が来ないのはそのためですよ。」と、声をかけるものがあった。

赤帽、今度は声だけで登場。

千枝子は咄嗟にふり返って見たが、後には赤帽も何もいない。いるのはこれも見知り越しの、海軍将校の夫妻だけだった。無論この夫妻が唐突とそんな事をしゃべる道理もないから、声がした事は妙と云えば、確かに妙に違いなかった。

とはいえ姿を見せなかったので、その声が赤帽とは限らないわけだが―――

が、ともかく、赤帽の見えないのが、千枝子には嬉しい気がしたのだろう。あいつはそのまま改札口を出ると、やはりほかの連中と一緒に、夫の同僚が車寄せから、自動車に乗るのを送りに行った。

ほかの連中とあるように、このときは他にも人がいたということだろうか。

するともう一度後から、「奥様、旦那様は来月中に、御帰りになるそうですよ。」と、はっきり誰かが声をかけた。その時も千枝子はふり向いて見たが、後には出迎えの男女のほかに、一人も赤帽は見えなかった。

夫が帰って来る―――うれしい知らせか、今聞きたくはない話か、とにかく千枝子さんをドキッとさせたに違いない。

しかし後にはいないにしても、前には赤帽が二人ばかり、自動車に荷物を移している。
――その一人がどう思ったか、途端にこちらを見返りながら、にやりと妙に笑って見せた。

自動車の乗り場近くにいた赤帽。さっき見送った同僚とのかかわりをも伺わせる。そしてにやりと笑って見せた意味を、千枝子さんはどう受け取ったのだろうか。

千枝子はそれを見た時には、あたりの人目にも止まったほど、顔色が変ってしまったそうだ。

知ってるぞ、お前の秘密を。そんな笑みにも感じられたに違いない。いやなタイミングで現れる赤帽に、まるですべてを見透かされているかのようだ。

が、あいつが心を落ち着けて見ると、二人だと思った赤帽は、一人しか荷物を扱っていない。しかもその一人は今笑ったのと、全然別人に違いないのだ。

すぅといなくなる赤帽、未だ謎の存在である。

では今笑った赤帽の顔は、今度こそ見覚えが出来たかと云うと、不相変わらず記憶がぼんやりしている。

潜在的に、記憶することを避けているのだろうか。それとも千枝子さんが、兄に語りたくない部分があるからなのだろうか。

いくら一生懸命に思い出そうとしても、あいつの頭には赤帽をかぶった、眼鼻のない顔より浮んで来ない。――これが千枝子の口から聞いた、二度目の妙な話なのだ。

しかしなぜ千枝子さんは、赤帽のことをそんなに詳しく兄に語るのだろうか。隠し事があるからこそ、別の話をすることでごまかしている、ということかもしれない。

 その後一月ばかりすると、――君が朝鮮へ行ったのと、確か前後していたと思うが、実際夫が帰って来た。右の腕を負傷していたために、しばらく手紙が書けなかったと云う事も、不思議にやはり事実だった。

千枝子さん自身は、この奇妙な一致をどう思ったのだろうか。赤帽を信じていない村上自身は、やはりどう思ったのだろうか。

「千枝子さんは旦那様思いだから、自然とそんな事がわかったのでしょう。」――僕の妻なぞはその当座、こう云ってはあいつをひやかしたものだ。

旦那様思い―――この言葉の重さを、発言したお姉さんはわかっていないだろうが、千枝子さんにはぐさりと刺さったことだろう。

それからまた半月ばかりの後、千枝子夫婦は夫の任地の佐世保へ行ってしまったが、向うへ着くか着かないのに、あいつのよこした手紙を見ると、驚いた事には三度目の妙な話が書いてある。

三度目の妙な話は、千枝子さんが兄にあてた手紙に書かれたものだった。と、兄が言っているわけだが、果たしてほんとうなのだろうか。だんだん村上の話自体が、なんだか信用できなくなってくる。

と云うのは千枝子夫婦が、中央停車場を立った時に、夫婦の荷を運んだ赤帽が、もう動き出した汽車の窓へ、挨拶のつもりか顔を出した。

赤帽の話をするときの村上は、なぜかずっとその場にいたかのように語っている。

その顔を一目見ると、夫は急に変な顔をしたが、やがて半ば恥かしそうに、こう云う話をし出したそうだ。

やはり中央停車場に赤帽が現れたことになっている。しかし、その場にいた千枝子さんの反応について全く触れていないのは不思議でならない。

――夫がマルセイユに上陸中、何人かの同僚と一緒に、ある珈琲店へ行っていると、突然日本人の赤帽が一人、卓子の側へ歩み寄って、馴々しく近状を尋ねかけた。

何度も言うが、日本にいた赤帽が、どうやってマルセイユまでやってくるというのだろう。

勿論マルセイユの往来に、日本人の赤帽なぞが、徘徊しているべき理窟はない。が、夫はどう云う訳か格別不思議とも思わずに、右の腕を負傷した事や帰期の近い事なぞを話してやった。

あきらかに不自然なできごとなのに、なぜか普通に答える千枝子さんの夫。カフェだといえども、海外にいてこうも無警戒に他人に身の上話をするものだろうか。

その内に酔っている同僚の一人が、コニャックの杯をひっくり返した。それに驚いてあたりを見ると、いつのまにか日本人の赤帽は、珈琲店から姿を隠していた。

実に細かい描写。夫が千枝子さんに、千枝子さんが兄に、そしてその村上が主人公に語るのに、こんなに具体的な話ができるだろうか?

一体あいつは何だったろう。――そう今になって考えると、眼は確かに明いていたにしても、夢だか実際だか差別がつかない。のみならずまた同僚たちも、全然赤帽の来た事なぞには、気がつかないような顔をしている。
そこでとうとうその事については、誰にも打ち明けて話さずにしまった。

だんだんと、語り口が村上自身のものとなっていく。まるで本人が体験したかのように。

所が日本へ帰って来ると、現に千枝子は、二度までも怪しい赤帽に遇ったと云う。

不貞の件があるというのに、わざわざ千枝子さんが夫に赤帽の話をするだろうか。こうなると、最後の手紙だけではなく、村上の話のすべてが怪しく思えてくる。

ではマルセイユで見かけたのは、その赤帽かと思いもしたが、余り怪談じみているし、一つには名誉の遠征中も、細君の事ばかり思っているかと、嘲けられそうな気がしたから、今日まではやはり黙っていた。

怪談じみている理由、そのひとつは村上の語りそのものだと、もはや断言できる。そういえば、話の途中に出てきた泉鏡花が怪奇譚で有名な作家だということも、偶然ではないように思われてきた。

が、今顔を出した赤帽を見たら、マルセイユの珈琲店にはいって来た男と、眉毛一つ違っていない。
――夫はそう話し終ってから、しばらくは口を噤んでいたが、やがて不安そうに声を低くすると、「しかし妙じゃないか? 眉毛一つ違わないと云うものの、おれはどうしてもその赤帽の顔が、はっきり思い出せないんだ。ただ、窓越しに顔を見た瞬間、あいつだなと……」

もはや完全に、村上自身の言葉で語られている。本人もそのことをまるで隠す気もないようだ。つまり、村上の話の真の目的は、赤帽が何者なのかなどはどうでもよく、主人公に千枝子さんの一連の不可思議な行動について伝えることにあったのではないか。

 村上がここまで話して来た時、新に珈琲店へはいって来た、友人らしい三、四人が、私たちの卓子へ近づきながら、口々に彼へ挨拶した。

ここで入ってきた村上の友人たちは、主人公とは顔見知りではない。主人公との交友関係とは別の友人グループということになる。これが意味すること、それは主人公とのある種の決別なのではないか。

私は立ち上った。「では僕は失敬しよう。いずれ朝鮮へ帰る前には、もう一度君を訪ねるから。」

主人公には言うべきことがある、しかしそれは今は言えなかった。朝鮮へ発つとき、そのときが本当に最期の別れとなるのだろうか。

 私は珈琲店の外へ出ると、思わず長い息を吐ついた。

村上はすべて気づいていた―――それが主人公にもわかった瞬間だった。赤帽だ妙な話だなんて言いながら、妹千枝子のために村上は今日、主人公に会って話をしたのだ。暗にすべてを伝えるために。

それはちょうど三年以前、千枝子が二度までも私と、中央停車場に落ち合うべき密会の約を破った上、永久に貞淑な妻でありたいと云う、簡単な手紙をよこした訳が、今夜始めてわかったからであった。…………

一周目では読み飛ばしていたが、村上の話―――中央停車場での出来事から、すでに三年経っていたのか。村上は千枝子さんが完全に落ち着くのを待っていたのかもしれない。あるいは真実に気づくまでに時間を要したのかもしれない。
鏡花の作品のように、誰かを殺すわけでもなく、しかし確実に村上は、断罪を成し遂げたのかもしれない。

 語りの内容の真実よりも、語りそのものの真意こそ、読むべき真の内容だったという話―――そういうふうに読んでみました。


※この企画および本稿タイトルは、noruniru様のフォーマットを拝借し作文したものです。

noruniru様の最近の「全文にツッコミをいれてみた」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?