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【企画】梶井基次郎『桜の樹の下には』に余計なことをしてみた

 この企画は、梶井基次郎による物語体小説である『桜の樹の下には』が、実はある短編小説の台詞部分だけを抜き出し、作品として発表されたものである、という勝手な投稿者の推測に基づき、存在しないもとの短編小説を復元するという試みです。投稿者の余計な加筆により、作品は凡作となってしまった訳ではあるものの、そのことで却って、梶井基次郎の『桜の樹の下には』の素晴らしさを感じて頂けることができたなら、この企画は成功したものと考えます。

※本文は『梶井基次郎全集』(ちくま学芸文庫)を参照して書きましたが、引用は青空文庫からおこなっています。


梶井基次郎『桜の樹の下には』

 春の優しい陽の光の中、時折吹く風もまた肌に心地よかったある日、私逹は溪に沿った街道の午後を散歩していた。

 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」

さっきまで俯き加減に独言をつぶやいていた彼は、突然に顔を上げ、そう叫んだ。

 「これは信じていいことなんだよ。」

 私には彼が分からなかった。
分からないながらも、こうしてともに散歩することが、私が彼にしてやれることであり、それが彼と私とのいわば友情となっていた。

 「何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。」

 確かにここ数日、彼の精神は傍目で見ても分かるほどに不安定なものだった。昼間家に籠って出てこない彼にこちらも不安を覚え、やっと今日になって外へと連れだすことに成功したのだ。そうでもしなければ、彼はきっと―――

 私の心配を余所に、彼はさらに続けた。

 「しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」

・・・信じていいこと―――

そう復唱しながら彼の方をちらと見るが、天高い光源に照らされた彼の顔は黒く、その表情は分からない。

 「どうして俺が毎晩家へ帰って来る道で、俺の部屋の数ある道具のうちの、選よりに選ってちっぽけな薄っぺらいもの、安全剃刀の刃なんぞが、千里眼のように思い浮かんで来るのか――おまえはそれがわからないと言ったが――そして俺にもやはりそれがわからないのだが――それもこれもやっぱり同じようなことにちがいない。」

 彼はしばしば、頭に浮かんだ心象についてを自由な言葉で表現した。それはあまりにも抽象的で不明瞭な造語であることもあれば、生々しく具体的で現にある物を示すようなこともあった。しかしその真意については、いつも分からないままだったし、彼自身その話に長く固執することはなかった。

全く、剃刀の刃と桜の樹の下の屍体とが、一体どう同じだというのだろう。
子供の言葉遊びか謎かけか、それとも彼特有の芸術表現だとでもいうのだろうか―――。

聞き流すつもりが、つい彼の言葉にとらわれてしまった私の傍で、彼は珍しく言葉を続けた。

 「いったいどんな樹の花でも、いわゆる真っ盛りという状態に達すると、あたりの空気のなかへ一種神秘な雰囲気を撒き散らすものだ。」

 「それは、よく廻った独楽が完全な静止に澄むように、また、音楽の上手な演奏がきまってなにかの幻覚を伴うように、灼熱した生殖の幻覚させる後光のようなものだ。それは人の心を撲たずにはおかない、不思議な、生き生きとした、美しさだ。」

 「しかし、昨日、一昨日、俺の心をひどく陰気にしたものもそれなのだ。」

 春に咲く花の美しさとその高揚感とは、私にだってわかるつもりだ。冬という序曲から、春一番の突風と嵐とを駆け抜け到達する、自然の神秘と祝祭とは、日本人なら誰もが感じる喜びと言ってもいいのではないか。その、生き生きとした美しさが、そもそもなぜ彼に不安を与え彼の心を陰気にさせるというのか。
私には、そこが分からないのだ。

 彼はさらに続けた。

 「俺にはその美しさがなにか信じられないもののような気がした。俺は反対に不安になり、憂鬱になり、空虚な気持になった。しかし、俺はいまやっとわかった。」

 「おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。何が俺をそんなに不安にしていたかがおまえには納得がいくだろう。」

想像―――。明るい光に輝く花の花弁たちの下で、真っ暗闇の土のなかに眠る屍体―――。

何という、双極的な対比のイマジネーションだろうか。

 「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。」

 「何があんな花弁を作り、何があんな蕊しべを作っているのか、俺は毛根の吸いあげる水晶のような液が、静かな行列を作って、維管束のなかを夢のようにあがってゆくのが見えるようだ。」

不安、不吉、陰湿、醜悪、およそ美しさとは全く対極の、直視できない生々しさ―――

彼には、何が見えているのか。何が彼を生き生きとさせるというのか。

 「――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。」

私は彼の言葉の理解不能さに、いや、その生々しさへの生理的忌避感に、苦しんでいるのだろうか。

 「美しい透視術じゃないか。」

美しい?なにが?桜が?屍体が?

 「俺はいまようやく瞳を据えて桜の花が見られるようになったのだ。」

私には、もう無理だ―――。

 「昨日、一昨日、俺を不安がらせた神秘から自由になったのだ。」

さっきまで美しく咲いていたはずの桜の花たちを、今私は直視することができない―――

 「二三日前、俺は、ここの溪へ下りて、石の上を伝い歩きしていた。水のしぶきのなかからは、あちらからもこちらからも、薄羽かげろうがアフロディットのように生まれて来て、溪の空をめがけて舞い上がってゆくのが見えた。おまえも知っているとおり、彼らはそこで美しい結婚をするのだ。」

薄羽かげろう―――それは水辺で羽化し、きらきらと辺りを飛び交う極楽とんぼである。それが美の女神のようだという形容は、確かに相応しいと私にも分かる。そこには自然の美しさが、そう、誰にだって見て取れることだろう。

彼はさらに言葉を続けた。

 「しばらく歩いていると、俺は変なものに出喰した。それは溪の水が乾いた磧へ、小さい水溜を残している、その水のなかだった。思いがけない石油を流したような光彩が、一面に浮いているのだ。おまえはそれを何だったと思う。それは何万匹とも数の知れない、薄羽かげろうの屍体だったのだ。」

屍体という言葉を、こうも目を輝かせ活き活きと発する者が他にあるだろうか。それほどまでに彼は、死について力強く語って見せたのだった。

 「隙間なく水の面を被っている、彼らのかさなりあった翅が、光にちぢれて油のような光彩を流しているのだ。そこが、産卵を終わった彼らの墓場だったのだ。」

水に浮く、油。産卵と、墓場。さっきまで相容れぬものに思えたコントラストの両極が、彼の目にはひとつの泉、ひとつの連絡、ひとつの宇宙に見えているのか。

恐ろしいことに、彼の言葉に私自身も吸い寄せられようとしていた。

 「俺はそれを見たとき、胸が衝かれるような気がした。墓場を発いて屍体を嗜む変質者のような残忍なよろこびを俺は味わった。」

明らかに尋常な言葉遣いではない。踏み越えてはならぬ禁忌のような忌避感と誘惑が、そこにはあった。

 「この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。」

春の鳥たちも木々も緑も、自然の美しさという意味を帯びて私たちの眼前にあらわれている。その心象は、確かに作られたものにすぎない。それが彼の不安の原因だったのかもしれない。内部にあるものを隠す皮膚、着飾られた偽りの美しさ。

 「俺には惨劇が必要なんだ。」

惨劇―――その言葉は、彼にとっては特別な意味を持つようであった。

 「その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。」

 それでもやはり、私には彼が分からなかった。
彼のいうような生き生きとした美しさが、その惨劇によってもたらされるとして、それはもっと、健康的なものであってもよいのではないか。なぜそれは、憂鬱の完成などと呼ばれるようなものである必要があるのか。それが私には理解できない。理解できないが、その一方で私自身が何かを感得していることも、また確かではあった。言葉にできない何かを。

 「――おまえは腋の下を拭ふいているね。冷汗が出るのか。それは俺も同じことだ。」

 彼自身にとってもまた、惨劇とは異常な事態だということだろうか。だが、なぜそんなにも活き活きと言葉を発していられるのか。彼の瞳は、墨のように黒く、しかし確かに輝いていた。

 「何もそれを不愉快がることはない。べたべたとまるで精液のようだと思ってごらん。それで俺達の憂鬱は完成するのだ。」

 私には彼が分からない―――だが、そもそも分かるとか分からないとか、そういう話に何の意味があろうか―――

 「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!」

 「いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。」

 空想は必ずしも非現実を意味しない―――世界は多様で、切り分けなどなく、受け入れさえすれば、ひとつになっていくものなのだろう―――

 「今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。」

 対岸で花見に沸く村人たちが、酒瓶を片手に踊っていた。それは春の昼間の、どうということのない風景である。果たしてあそこに彼ほど苦しみを持ちそれをなお受入れ、桜を見るものなどいるだろうか。
だがいや待て、もしかしたら彼ら村人こそ、桜の樹のもとに生まれ、朽ちてこの土の中へ還っていく人々であり、この地この風この大地とひとつの存在なのかもしれないではないか。

 彼は、いや本当のところ我々はいつだって、死なない言い訳を探し求めて、この街道を行くように、生きていくのだろう。

 剃刀の刃は薄羽かげろうのように、実のところいつだって、我々の首を搔く準備をしながら、美しく光り輝いているのだ。


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