連帯ができない自分、共有が痛いと感じる自分、それはまぎれもないわたしそのものだ

週1ペースでの更新ということで、初投稿、って考えると緊張しますね。気負わずに続けていきたいと思います。

こうして、「なんでもない日のうた」をはじめ、この「発達障害を背負わない」というマガジンを立て続けに立ち上げておいて言うのもなんなのですが、わたしは、いま、とても不安だ。

足元も景色も見えない暗闇のなかをもがいているかんじだ。果たしてこれでいいのか分からない。

実はいま、それらとはまた別の原稿の下書きが手元にある。昨日がーっと書いたら、1万4000字くらいになった。そのマガジン(マガジンか単発にするかは未定なのだけど)のタイトルは「ASD(自閉症スペクトラム)女の これまで言いたくても言えずに我慢してきた『愛』とか『セックス』とかについて ぜんぶ言っちゃうね」というものだ。

一応、扉絵(っていうのかな?)作ってみた

書き上げた原稿の内容としては、自らの性被害を告発し、性被害の撲滅を訴える社会運動#MeeTooが、女性ジャーナリスト詩織さんの告発をきっかけに2018年くらいから国内でも広がってきたのだけど、ちょうどこの時期、わたしはある性被害に遭い、「被害者」となり、女性シェルターに入居するも、いろんな葛藤があって発狂して統合失調症を発症して入院し、身寄りなし独居、職なしのわたしは、やむをえず犯人側についた弁護士からの示談交渉で和解をすることになったーーという一連の出来事にまつわる考察などだ。

そこで一番言いたかったことは、#MeeTooなどのようなSNSを通じて、社会運動になっていくこと、”うねり”が、盲信的に進んでいくことへのわたし自身の怖さや、抵抗だ。

わたしは、ASDの特性上もあれば、生まれながらの気質や生育環境もあるとは思うけれど、どうしても、人と交わりたくても交われない。連帯したくても、できないし、したくない。共有したくても、できないし、なによりもしたくないのだ。

最近は仕事でもなんでも、「共有」「共有」と、共有することがいやなくらい求められる。だけど、「共有」が好きな人(共有信者とでも言おうか)はこの世の中にはとっても多いし、頼まれてもいないのにやみくもになんでも共有することで、<共有してあげている親切な自分>と自己肯定感を保っている人がいたり、共有することが善だと思って、好意的にそれを、わたしが求めているかいないかにもかかわらず、押し付けてくるとても暴力的な人もいる。

そんな人たちは、誰もが共有を必要としているにちがいない、共有することは親切なことにちがいないと、信じて疑わない人にわたしには映る。「あなた、ここにいるんでしょ?出てきなさいよ!」と、静かに過ごしていたいのに、扉をドンドン叩いて妨害している行為だとは、疑ったことがないみたいだ。

「共有」することについて、わたしは、人に自分のプライベートゾーンを土足で踏みにじられるような痛みを感じる、いや、もっと強い言葉で「侵襲」(しんしゅう)と表現したことが何度もある。精神保健福祉士の養成校に通っていたとき、対人援助演習というグループワークで常に自らの心模様を開示し合うことにたいして、ケースごとに開示するかしないかの選択権がほしいと、合理的配慮を求めて交渉を繰り返しているときだった。

だけど、精神保健福祉や対人支援に精通した専門家である彼らでさえ、「侵襲」という聞きなれない言葉に首をかしげるとともに、「共有が侵襲、痛い」=???という反応を教師陣すべてから示されしまい、ひどく絶望した。その学校は3ヶ月で退学してしまった。

連帯ができない自分、共有が痛いと感じる自分、それはまぎれもないわたしそのものだ。

だけど、わたしがわたしそのものでいると、この世の中は「ありのままに」「自分らしく」ということを推奨するけれど、わたしのような人間がなにか自分自身の文脈で発信し始めると、「社会」から爪弾きにされ、反社などとみなされてしまう。

所属するコミュニティすべてでそんな繰り返しの人生だったけれど、なんでだろう。そんなの不平等じゃんといつも思う。他人の多様性を認めているのに、わたしのような人間の多様性は反社で認められない。こんないびつで不平等な世の中で、どうやってわたしは誰かと尊重し合えばいいのか、立っていけばいいのか。

「愛」と「セックス」についてだってそう。書きたいことはごまんとある。だから別立てにして、それは大きなテーマとして、生きづらい世界ではバイアスがかかってしまいがちな場ではなく、誰にも邪魔されない場で、言葉にしていきたいと思っている次第です。

自由に表現する場がほしくて、書いている。だけれども、受け入れてもらえるだろうかと恐れている自分がいる。わたしの表現するものを、必要としてくれる人は果たしているのだろうか。ごくごく個人的なことにすぎなくて、誰にも役にも立たないではないか。でも、いや、「すぐに役立つ」ものを書きたいわけではない。

現実社会と同様、わたしはこの文章界隈でも、反社なのか。

わたしだけがやはり、おかしいのだろうか。そんなわたしさえいなくなれば、これまで爪弾きにされて去ってきた職場は、まるくおさまって、平和だったのだろうかーーとかとか。

わたしにとって、表現すること、その手段である「書く」ことは、自分自身の身を削っている行為だ。逆に、身や心を削ってしか、わたしは創造することができない。

ぼろぼろにすり減らすよりも、すり減らさずに、穏やかに、楽に、生きていきたいとずっと願ってきた。その方法もたくさん探ってきた。だけど満たされなくて、結局、こうやってすり減らして書くところにまた戻ってきた。

ライティングスキルを生かして、頼まれたらなんでも書くこともした。人は、せっかく書けるんだからもったいないよと言ったけど、意に沿わないものを書くつらさは、自分じゃないと分からない感覚だということを知った。だから、書きたいもののしんどさは、受け入れるしかない。

でも、そう受け入れたうえでやっていたことが、誰に響いているのかわからないまま、そもそも誰かが必要としているのかもわからないまま、暗闇を歩くような状態でいることもしんどい。

……といういまの状況をご報告して、今回は締めさせていただきます。

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お試し運用中なので、有料マガジンでありながら、無料で読める部分は多いです。ただ、デリケートな内容が多いため、徐々に無料部分は減らしていく予定です。見逃したくない方は、定期購読していただくのがおすすめです。

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