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「学ぶ」ことの楽しみ方

こんにちは♪

教育と芸術の分野に関して、完全に素人なのですが、素人なりに感じる日本と外国の違いと、私が感じていることを書いてみたいと思います。

芸術って何だろう

私は学生時代にピアノを習っていたこともあり、クラシック音楽を聞きに行くことが好きだったり、博物館や美術館にも興味があります。また旅行に行けばその土地のお城など歴史的建造物にも興味があります。

どちらも聞いたり見たりした直後は、感動に包まれますし、奏者・画家の表現したいことがどのようなものだったのかとか、想像を巡らす時間がとても楽しいです。またそのことについて、パートナーや友人と感想をお互いに言い合う時間があるから、「この人はこう感じるんだ〜」という、「人」の少しパーソナルな部分を少し感じることができ、嬉しい気持ちになります。

以前、とある方が
「芸術を見る意味がいまいち分からない。だからあんまり、旅行で観光地をまわるという楽しみ方が分からないんだよね〜」
ということをおっしゃっていました。

「楽しい!」と感じるものは人それぞれですし、「楽しい」と思えないものを無理やりする必要はないのですが、その時にふと学生時代に思ったモヤモヤを思い出しました。

「なんで音楽や体育は国語や英語に比べて評価されないんだろう・・・」
「音楽のテストはなぜ記述式の点数評価が高いんだろう・・・」

音楽が好きだったこともあり、ソルフェージュ(楽譜に関する勉強)と呼ばれるようなものも、多少勉強しましたが、音楽は音を楽しんだり、音楽に乗せて自分の気持ちや感情を表現すること、そのような楽しみ方を知るから、他の人の演奏を聞くときに想像力が掻き立てられるのではないかと思います。

音楽の楽しみ方や奥深さを習得することができれば、それは自転車のように幾つになっても、音楽が楽しめる人になるような気がしています。

フィンランドと日本の教育

以前テレビ番組で、順位をつける日本の体育の授業を見たフィンランドの教師が日本人教師に疑問をぶつけるという内容があったようです。(私は切り抜き動画を見ただけですが)

フィンランドの教師:
「運動はそもそも良いことなのに、子どもたちを競わせることで運動
が得意じゃない子はビリという烙印が押されてしまう」

「子どもたちが運動を好きになって、将来、社会に出たときに健康を維持するために走ったりすることが本来の目的では?」

というようなことをおっしゃっており、日本人教師もその方の考える「体育の意義」を伝えていましたが、どうにも本来の目的という論点からずれていて(おそらくそこをディスカッションできなかった)、平行線のままで終わっていた(ような・・・)
※若干ニュアンスが違っていたらすいません

結果はそんなに大事?

小さい頃から、結果にばかり大人が標準を合わせて話をするのは、あまり良くないと私は思っています。

それだと得意なことは良いですが、不得意なことは自信喪失しかねません。
しかも自信がなくなるストレスで、得意なことは相手にマウント取りたくなるかもしれません(評価されたい欲求で)。

ちょっと今の日本ってこういうのがある気がします。そして「これって教育の在り方の弊害では?」と思っています。

そして、この影響は大人になっても続きます。

ついつい「これが正しい」「これは正しくない」という目に見えることで称賛したり、避難したり・・・

「これも良い!」「あれも良い」
「私はこう思う!」「あなたはそう思うんだね!」

ということが年齢も問わず、誰とでも言い合えるようになるって、大事だな〜と思いますが、これができない状況が続くと、自分自身にストレスがかかって、自信がなくなるようなことが起こる可能性がありそうですね。

ちょっと話が広がってしまいましたが、
音楽も、体育も、国語や英語なども本来テストの点数を取ることが目的ではなく、それぞれを楽しむことが学ぶ目的だと思います。

音を楽しむ(これ「のだめカンタービレ」でも言っていますよね)。体を動かす楽しさ・気持ちよさを感じる。言葉をいろいろ覚えて、自分の感情をより豊かに表現する。英語を通じて日本以外の文化や国、いろんな人がいることを知るなどなど・・・

人と比べる必要はなく、相対的評価も必要ないと個人的には思っています。

「みんな違って、みんないい」って心から思える気持ちが育まれるためには、こういうことからかな〜なんて思いました。

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