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「見る」を見る/植本一子『フェルメール』

点在するフェルメールの全作品をカメラにおさめるために、世界の美術館を一度に巡った記録だと聞いて慌てて私は本書を手にとった。植本一子『フェルメール』(ナナロク社・Bluesheep)は彼女が撮影したフェルメールの写真とそれを巡る旅のエッセイから構成される。彼女は現存するフェルメールの35の作品を弾丸のように旅してカメラに収めていく。特長は彼女が絵だけでなく、その細部やそれが掲げられた空間、それを見る人たちを撮っている点にある。絵の前に立ち絵を眺める人がいることで、絵の中の女がこちらをじっと見つめる視線がよりくっきりと現れる。

日ごろ美術に疎い私はつい画集を前にすると、几帳面に作品と正対してしまう。しかし、真面目に見ればいろんなことが見えるというものではない。本書は私に様々な角度から見たりしなければ見えてこないものがあるのだ、と教えてくれる。これほどまでに絵画を「見る」ということを意識させるものがあっただろうか? 

『牛乳を注ぐ女』、
『牛乳を注ぐ女』をiPhoneで撮影する少年、
少年のiPhoneの画面越しに「牛乳を注ぐ女」が映る。

『牛乳を注ぐ女』と『牛乳を注ぐ女』をぐっと見上げる少年、
その後ろに『恋文』があり、
絵のなかの女はただひとり、誰にも見られることなく恋文を読んでいる。

『天文学者』の中で天球儀を見る男、
天球儀を見る男、を見る男
天球儀を見る男、を見る男、を撮る「私」がいる。

だかしかし、ここで私の胸を強く撃つのは、彼女が「見る」ことに、そしてその構造に意識的であることではない。そんなことは写真家にとっては当然のことなのだろう。むしろ、これほど「見る」ことに懸命で、意識的でありながら、周囲が驚くほどに、絵に描かれたものごとを彼女が見落としてしまう点である。カメラの焦点が合ういっぱいまで絵に近寄り細部を写し、また遠く離れて光の具合について語る彼女は、絵に描かれた重大なモチーフをいとも簡単に見落としてしまうのである。あれほど大きく描かれていたのに、いったいあなたは何を見ていたのかと一瞬口に出しそうになる。しかし、私はこれこそが彼女を写真家たらしめている資質なのではないかと考えるのだ。

彼女は旅のはじめ、これからフェルメールの作品と対峙できるだろうかと思う。それは期待と同時に強い不安であり、なぜならば、どの美術館での撮影も一発勝負であるからだ。やり直しがきかない、と彼女は言う。それはまさに私たちが作品と出会うその出会い方のそのものである。

一度見てしまったら、私たちは見出したものにたちまち囚われてしまう。だから、その作品をはじめて見た時の感情を自身の中に持ち続けることは、そして、それを写真に収めることは容易ではない。彼女が簡単には絵の中に何かを見出してしまわないことは、作品をはじめて見た経験をカメラに収めるために、欠くことができなかったのだ。

彼女の目を通して撮られた写真は、まるで自分が美術館でフェルメールの絵を見たかのように様々なことを私たちに気づかせる。そして本書を読み終えた時、きっとあなたはフェルメールの実物を自分の目で見てみたくなっているはずだ。


植本一子著 『フェルメール』
ナナロク社・Bluesheep
定価 2,000 +税
B6版 287P 2018年10月刊


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